京都駅から、市バスの9または50系統に乗り、「堀川御池」で降り、西に5分ほど歩くと神泉苑がある。
ここで義経と静御前とが初めて出会った所と云われている。
神泉苑は、平安京を造るときに、大内裏の東南に接して造られた禁苑で、俗に御池とも呼ばれている。
昔は、東西200m、南北400mの敷地があり、乾臨閣を正殿とし、法成就池という大池を掘って、庭園美を極め、天皇や貴族が遊興にふけったという。
またこの池は日照りが続いても枯れることはなく、神の泉と言われ「神泉苑」と呼ばれた。
日照りが続き庶民が水不足に苦しむと、神泉苑の池を開放し水を飲むことが許されたことから、庶民は池を「御池」と呼ぶようになり、神泉苑の前の通りを御池通と呼ぶようになったという。
神泉苑の駒札によれば、
『延暦13年(794)、桓武天皇が平安京の造営に当たり、大内裏の南の沼沢を開いて設けられた苑地で、常に清泉が湧き出すことから神泉苑と名づけられた。
その境域は、南北四町東西二町という広大なもので、苑内には大池と中嶋のほか、乾臨閣(けんりんかく)や釣殿、滝殿などもあり、歴代の天皇や貴族が舟遊、観花、賦詩、弓射、相撲などの行事や遊宴を行ったといわれている。
天長元年(824)春の日旱(ひでり)に、この池畔で東寺の僧空海が善女龍王を祀って祈雨の法を修して霊験があったと伝えられ、以後当苑では名僧が競って祈雨の修法を行うようになった。また、貞観5年(863)には、初めて当苑で御霊会が執行されるなど、宗教霊場として利用されるようになった。
現在は、東寺真言宗に属し、毎年5月1日から四日間の神泉苑祭には、壬生狂言の流れを汲む神泉苑狂言(京都市登録無形民俗文化財)が執り行われる。』
出典:【神泉苑の駒札】より
神泉苑では日照りが続き旱魃(かんばつ)の兆しがみえると、雨乞いの儀式が度々行われている。
神泉苑での雨乞いの歴史の中で、天長元年(824)東寺の空海と西寺の守敏(しゅびん)とが、旱魃に苦しむ民を救えと、淳和天皇の勅命により、神泉苑の法成就池で雨乞いの祈祷を行うことになった。
かって、空海と雨乞いの法を競ったときに、空海の法力に敗れていた守敏は、呪力で雨を降らせる龍神を閉じ込めて、空海の法力を封じようとしたのである。
しかし空海はこれを見抜き、北天竺に唯一つ残った善女龍王を勧請し、日本国中に雨を降らしたという。
以来、神泉苑の法成就池には善女龍王が住むようになったと云われる。
この法力対決に敗れた守敏は力を失い、西寺の衰退につながっていくのである。
平家を壇ノ浦で滅ぼした源義経は、後白河法皇に神泉苑での雨乞いの儀式に招かれる。
寿永元年(1182)7月、日本国中に日旱が続き、神泉苑にて、雨乞いが行われた。
名のある高僧100人を呼び、雨乞いの祈祷を行うが一滴も雨は降らず、また容姿端麗なる白拍子に舞をまわすのだが、99人までは空に変化はなく、100人目に静御前が舞始めると、にわかに空がかき曇り、黒雲が湧き出でて三日三晩、雨が降り続いたという。
この水干に立烏帽子で舞う、静の姿を義経が見初めたのが初めての出会いだと「義経記」に残っている。
ただ一介の武士にすぎない義経が、何故、天皇に禁苑である神泉苑に招かれたのだろうか・・・
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