常盤御前は、平安時代の末期に生きた絶世の美女で、近衛天皇の中宮・藤原呈子(ていし)の雑仕女(女性の召使)から、源義朝の愛妾になり、今若・乙若・牛若を生んだ女性である。

01源光寺mid
保延4年(1138)に産まれたというが出自は不明で、何時何処で亡くなったのかもはっきりとはしないのであるのだが・・・
嵐電北野線の常盤駅から南に200mほど歩いたところにある、源光寺の辺りで産まれたと伝えられ、晩年はここに庵を結び余命を過ごしたと云い、境内には常盤御前の墓がある。
源光寺は、八角形の本堂や門前に掛る「唯一全国地蔵尊霊場会総合本部」などから、ここは、どんな寺仏を祀り、何を信仰する寺なのか、不思議な想いを感じるのだが、臨済宗天龍寺派の尼寺で、本尊は観世音菩薩である。
また六角堂には常盤地蔵または乙子地蔵と呼ばれる地蔵尊が安置され、京の六地蔵巡りの4番札所で、周山街道を守る地蔵菩薩である。

02常徳寺mid
常盤御前は、近衛天皇の中宮、九条院(藤原呈子)の雑仕女で、この雑仕女に採用される時、都の美女千人を集め、そこから百名を選抜し、さらに十人を選んだ中に入り、その中でも一番美しい女性だったという。
源義朝に見初められ側室となり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、牛若(後の義経)を生む。
義朝が平治の乱で、平清盛に敗れると23才の身で三人の子供を連れ、大和に逃れようとするのだが、伏見で捕縛され(一節には、母が捕えられて自ら出頭したともいう)京の六波羅の清盛の前に引き出される。
常盤はそこで、三人の子供の助命を願うのだが、その時に清盛が常盤の美しさに心惹かれ、助命をしたというのだが、これはその前に、頼朝がすでにその命を助けられ、伊豆に流されていることから、この三人も命まではとらなかったのだという。
これも清盛の誤算で、頼朝の流された伊豆の韮山は、絶海の孤島でもなく、陸続きの所だったのである。
その後、公家・一条長成の後添えになり、一男一女をもうけている。

03貴船神社mid
因みに、
今若は7男で醍醐寺に出家し、長じて「阿野全成」と名乗る。
源頼朝が出兵すると一番に駆けつけ、頼朝の信を得て地位を築く。
頼朝の死後、2代将軍・頼家と対立し、建仁3年(1203)に謀反人として捕えられ、常陸国に流され、誅殺される。
乙若は8男で園城寺に出家し、円成と名乗る。
円成も頼朝の出兵を知ると、義円と改名し、治承5年(1181)叔父の源行家と合流するが、墨俣川で、平重衛の軍と戦って討ち死にをする。
牛若は9男で、後の源義経である。義経については多くを語る必要はないだろう。
いずれも頼朝とは異母弟である。