ここ紫竹の地には、源義朝の屋敷があったとされる所が数多あり、常盤御前が牛若を産んだという場所も数多ある。
誕生の時に使ったという井戸と、産湯に使ったという井戸がそれぞれ残っているので、そこを訪ねてみよう。
まずは、紫竹栗栖町の交差点から南西に、33代続く上野新兵衛さんの畠に、忽然と表れるのが「牛若丸誕生井」の石碑である。
この辺りに源氏の棟梁であった源義朝の別荘があったとされ、そこで義朝の愛妾であった常盤が、牛若丸を産んだとされ、誕生の時にここの井戸から産湯を汲んだと伝わる。
その碑の前に「牛若丸産湯井 応永2年(1395)調之」と刻まれており、室町時代の初めから、ここが牛若誕生の地だとされていたのである。
その石碑の右奥、松の木の下には「胞衣塚」がある。
牛若丸の「へその緒」と「胎盤」が埋められていると言うのだが・・・
この石碑を建てた上野家は、義朝に仕えたという旧家である。
もう一つは、牛若丸誕生井から東に、紫野上野町のバス停から、東に入った民家の前に「源義経産湯井」の石碑が建っている。
紫竹栗栖町にあったのは「牛若丸誕生井」といい、ここは「源義経産湯井」といいどちらで牛若が産まれ産湯を使ったかは、今となっては分からない。
ここも、源義朝の別荘があった所とされ、常盤が牛若を産んだ時に産湯を汲んだというのだが、その後の長い年月を経て、大正時代の区画整理により井戸が失われることになり、この石碑が建てられたという。
碑文によれば、
『此の地は源義朝の別業にして、常盤の住みし所なれば、平治元年義経誕生の時、此の井水を産湯に汲みきとの伝説あり。
後に大徳寺玉室大源庵を建立せしが、荒廃して竹林となりぬ。茲に大正十四年十二月、紫竹区劃整理成るに当り、井泉の原形を失ひたれば、其の由緒を記して、後昆に伝へむとす。』
出典:【源義経産湯井の碑文】より
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