源氏を語るうえで、二つの戦乱を見ておく必要がある。
一つは、後鳥羽天皇と崇徳上皇が権力争いをした「保元の乱」
源氏と平氏の武士集団が入り乱れて戦い、源氏は親と子が、平氏は伯父と甥が骨肉相争そい、源氏も平氏も共に一族は残るのだが・・・
平氏は平清盛、源氏は源義朝、保元の乱を共に戦った二人だが、源義朝は東国の田舎武士、一方、平清盛は西国で御所近くの都会武士、平氏が重用され源氏と平氏に軋轢が起こったのが「平治の乱」である。
これに源義朝は敗れるのだが、その子供は日本各地に配流となるのだが、これが清盛の失敗で、清盛亡き後に源氏に取って代られることとなる。
源頼朝はこれを肌で感じていたようで、鎌倉幕府を開いてからは、跡継ぎとなるような子を生かしておくことはしなかったようである。
保元の乱と平治の乱は、下記を参照
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