堀川五条でバスを降りると、堀川通をはさみ、その向いには「京都東急ホテル」があるのだが、その横、堀川通に面した植込みの中に「左女牛井(さめがい)之跡」の石碑が建つ。
この左女牛井こそ源氏が京での拠点とした六条堀川館にあった井戸なのである。

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この地に屋敷を築いたのは源頼義で、その子・義家(八幡太郎)、その孫・為義、その子・義朝、その子義経と住み続け、保元の乱では義朝が義家、為義を誅し、平治の乱では平清盛に義朝が敗れ、そして、頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が義経の住む堀川館に夜討ちをかけるが失敗に終わり、義経は一旦、西国へと逃げることになるのだが・・・
この時に六条堀川館は焼け落ちてしまい、今は「左女牛井之跡」の石碑が残るのみである。

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そこに建つ駒札によると、
『京の名水として平安時代より知られ、源氏の邸いわゆる六条堀川館の中にとり入れられていた。
室町時代には、南都の僧村田珠光がこの畔に住み茶道を興し足利義政も来遊したという。
江戸初期元和2年5月織田有楽斎はこれを改修した。内径二尺四寸の丸井戸であった。
その後、天明大火で埋もれたが、安政2年、薮内家六世竹陰によって補修され、その碑が七世竹猗によって建てられていたが、円井戸とともに第二次世界大戦最末期民家の強制疎開とともに撤去された。
昭和44年醒泉小学校百周年記念事業の一つとして、ここに碑をたて名水を偲ぶよすがとした。』
                         出典:【左女牛井跡の駒札】より
とあり、今もって京の名水の一つを偲ぶものとして、ここに石碑が建てられているのである。