国道1号線は大阪から京都に向い、東寺で右折して堀川通を堀川五条で五条通に入り東に、山科・大津へと抜ける国道である。

01五条通mid
五条通の東は山科の阪神高速・京都東ICの三条通が起点となり、西は桂川の西大橋までの通りとなる。
五条坂から東海道、そして西の山陰道までと、京の東西を貫く幹線道路である。
現在五条通と呼ばれる通りは、平安京の六條坊門小路にあたり、豊臣秀吉が京都改造の時に方広寺への参詣のために、六條坊門小路の鴨川に橋を架け、この橋を五条大橋と名付けたことから、六条坊門小路が五条通と呼ばれるようになる。
平安京で五条大路と呼ばれていた通りは松原通となり、花街の宮川町へと続く道となっている。

02五条大橋(1)mid
京阪電車の清水五条の駅を地上に出ると、五条通の鴨川に架かる「五条大橋」がある。
古くは洛中から清水寺への参詣のために、鴨川を渡る橋として、今の松原通(旧五条大路の東端)に架かっていたが、天正18年(1590)に、豊臣秀吉が京都改造に際して、下流の六条坊門に移して五条橋と称し、通りの名も五条通と改めてしまった。
それにともなって、旧五条大路は松原通と呼ばれるようになる。
五条大橋は、江戸時代に高瀬川が開削され、正保2年(1645)に橋脚が石造りとなり、青銅の擬宝珠が付けられたが、その擬宝珠が今も橋に残っている。
江戸時代の鴨川に架かる橋は、手前の高瀬川と鴨川を越える為に、二つの橋(例えば、三条通では、高瀬川に架かる橋を「三条小橋」、鴨川に架かる橋を「三条大橋」と二つの橋が架けられた。今でも二つの橋が架かっている。)
それに反して、五条大橋は小橋が作られず、高瀬川と鴨川を一気に越える大橋を作りあげたのである。
明治、大正、昭和と過ぎ、昭和10年(1935)6月の鴨川水害で、昔の橋は流されて、現在の橋は、昭和34年(1959)3月に架けられた、鉄筋コンクリートの、長さ69m、幅3.6mの橋である。
擬宝珠には、正保2年(1645)の文字があるものが残っている。

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擬宝珠に記された記銘の一つには、
『五条大橋は、五条通の戦時建物疎開跡に幅五十米の道路となり、昭和二十七年国道に指定されてから、京都市交通動脈の様相を帯びてきたので、ここに現代技術と美の粋を技術と美の粋を集めた長さ六十七米幅三十五米の鋼桁橋として架設された。
影を鴨水に染め東山の翠に配した擬宝珠付石造高欄は、まさに王朝と現代を調和した文化観光都市の一つの象徴といえよう、疎水橋もこれにならい擬宝珠二筒を追補した。』とある。

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京都国立博物館の庭に、五条大橋の石材・橋脚と橋桁が残っている。
三本柱と日本の石材が五条大橋の橋脚と橋桁で、中央柱に「津国御影天正拾七年五月吉日」との刻銘があり、天正17年(1589)に秀吉の京都改革の折に架けられた時の石材である。
五条大橋はこの時、初めて豊臣秀吉によってに現在の場所に移され、それまでの五条大橋は松原通に架かる橋で、現在の松原橋の位置にあった。
この時に使われた石材は、三条大橋も五条大橋も同じ摂津国の御影(現在の神戸市)から運ばれた花崗岩である。
石の橋桁の切り込みに桁と直角に木の梁をわたし、その梁の上に踏み板を敷いたといい、橋桁の長さが7メートル半あるので橋の幅もほぼそれ位となる。
                       参照:【五条大橋の橋脚の説明】より