疎水公園の中に、工部大学(現東大)を出て疏水工事を担当した、田邉朔郎博士の銅像が建っている。
工部大学を出たての若い人材を、この一大プロジェクトに起用したのは、その当時の大学出はエリートであり又、その期待に応えられるだけの力を持っていたのである。

01田邉朔郎mid
『琵琶湖の水を引きて水利を京都に興さんとするは、百餘年来屡(たびたび)識者の唱へし所なれども、能く起ちて之に当る者なかりき。
明治二年、車駕東幸(しゃがとうこう:東京遷都)し一千年帝都の地,、日に衰弊せんとす事、天聴に達し畏くも内帑(ないど:皇室のお金)の金を賜ひて産業振興の資(かて)を佐(たす)けらる京都府知事北垣国道君、聖旨に感激し琵琶湖疏水工事を断行し府民をして永く皇沢に浴せしめんと欲す。
時に田辺朔郎君工部大学生たり、琵琶湖疏水の京都に利あるを念ひ之を論ぜり。
大学校長大鳥圭介君、君が才の用ふべきを知り之を知事に薦む。知事、君の設計を聴きて大に喜び此の大工事を挙げて君に嘱せり。
乃(すなわ)ち水路を幹枝二線に分ち、湖口三保崎ヨリ藤尾山科蹴上を経て夷川に至り堀川に合する者を幹線とし、専之(もっぱらこれ)を舟運に便し、蹴上より若王子白川を経て堀川に合する者を枝線とし、之を潅漑及工業に供する計画を定む。
斯くて十八年六月三日を以て、工を起すや君日夜心血を傾注して之に当り、要する所の材料及機械の類、或は遠く外国に求め或は自考案製作し、又部下を教習指導して其の技に熟せしむる等、百方画策孜孜(しし:一生懸命励む)として倦まず(うまず:飽きたりせず)工程愈(いよいよ)進みて苦慮益加る。
就中、長等山隧道は長さ一千三百四十間(2.43km)国中に比なく、蹴上より南禅寺前に至る傾斜鉄道は、長さ三百二十間(580m)世界未曽有とす。
又、南禅寺前より鴨川に至る間には、閘門を設け落差を調節して舟運に便せり。
此の工、未半(みはん:半ば(なかば))ならざるに、米国に於て始めて水力発電所を設けたるを聞き、二十一年、君米国に赴きて之を調査し、帰りて発電所を蹴上に創設す。
是、我が国に於ける水力発電装置の嚆矢(こうし:物事のはじめ)にして、世界最大と称せらる。
経営の苦心思ふべし、二十三年四月功竣(おわ)る。起工以来実に一千七百七十二日を閲(へ)せり。
之を第一疏水とす。同月九日、竣功式を挙行す。天皇・皇后親臨し優詔(ゆうしょう:ありがたい言葉)を賜ひて偉功を褒せらる。
其の後、君は帝国大学教授に任ぜられて東京に赴き工学博士を授けられ・・・』以下略
                     出典:【田邊朔郎紀功碑の碑文】より抜粋