宇治橋東詰から歩いて1分の所に、橋寺と呼ばれる「放生院」がある。

01橋寺mid
橋寺(放生院)は推古12年(604)、宇治橋を架けた秦河勝が、聖徳太子の発願により建立したとされる。
また境内にある宇治橋断碑によれば、大化2年(646)に元興寺の僧・道登により宇治橋が架けられた際に、宇治橋を管理するために開創されたともいわれる。
その後、宇治橋はしばしば流出し、弘安9年(1286)に西大寺の僧・興正菩薩叡尊によって再興された時に、叡尊は宇治川の中州に十三重石塔を建立し、当寺で大放生会を営んだことから、橋寺は放生院とも呼ばれるようになった。
本堂の前には、宇治橋が架けられた由来を彫った石碑があり、石碑は首部の三分の一しか発見されてなく、他は欠損しているので「宇治橋断碑」と呼ばれている。

02宇治歴史資料館mid
宇治橋断碑の複製が、宇治文化センターにある宇治歴史資料館に展示されている。
説明文によると、
『道登架橋を伝える石碑。
寛政3年(1791)に放生院境内で発見された。
上部約三分の一のみで折れていたため「断碑」と呼ばれる。
同5年に「帝王編年紀」によって下部の文が補われて再建された。
その経緯は、背面に刻される。
現物は放生院境内に建つ。』
                    出典:【宇治橋断碑(複製)の説明文】より

03宇治橋断碑mid
石碑の碑文は「帝王編年記」に全文が記されており、総て漢文で、
『浼浼横流 其疾如箭 修々征人 停騎成市 欲赴重深 人馬亡命 従古至今 莫知航竿
世有釈子 名曰道登 出自山尻 慧満之家 大化二年 丙午之歳 搆立此橋 済度人畜
即因微善 爰発大願 結因此橋 成果彼岸 法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其昔縁』
とあり、刻まれた漢文の意味する所は、
『浼浼たる横流、其の疾きこと箭の如し、修修たる征人、騎を停めて市を成す、重深に赴かんと欲すれば、人馬命を亡くす、古従り今に至る、航葦を知る莫し
世に釈子有り、名を道登と曰う、山尻恵満之家自り出たり、大化二年丙午の歳、此の橋を構立し、人畜を済渡す
即ち微善に因りて、爰に大願を発し、此の橋に結因し、彼岸に成果す、法界の衆生、普く此の願いを同じくし、夢裏空中に、其の苦縁を導かんことを』
                          出典:【宇治橋断碑銘文】より

04宇治橋mid
宇治橋は、大化2年(646)に架けられたという、日本でも古い橋だという。
「宇治橋」はまた、「瀬田の唐橋」と「山崎橋」と共に、日本三古橋と呼ばれている。
「瀬田の唐橋」は、琵琶湖から注ぎ込む唯一の川である瀬田川に架かる橋で、東から京に向うには、この橋を渡り琵琶湖を越えるしかないのであり、京都を防衛するうえでの重要な橋であり、「唐橋を制する者は天下を制す」とまで言われた。
「山崎橋」は、淀川の山崎と橋本の間に架かっていた橋である。今その橋はなく、現在の八幡に架かる御幸橋の2Kmほど下流に架かっていたという。
いずれも日本の古橋であり、残った橋は現在の新しい橋に架け替えられており、それぞれが交通の要衝となっている。
駒札には、
『千三百年以上もむかし、大化2年(646)に初めて架けられたと伝えられる、わが国最古級の橋です。
その長い歴史のなかで、洪水や地震などの被害、もちろん、戦乱に巻き込まれたことも数えきれません。
しかし、橋はそのつど架けなおされてきました。
この宇治が、交通上重要な場所であり続けたことのあらわれでしょう。
またこの橋は、古今和歌集や源氏物語をはじめとする文学作品、絵画や工芸品といった美術作品に描かれるなど、古くから景勝の地・宇治の象徴として親しまれてきました。
現在の橋は、長さ155.4m、幅25m、平成8年(1996)3月に架け替えられたもので、木製の高欄に擬宝珠があしらわれるなど、この橋の豊かな歴史と文化にふさわしいデザインがほどこされました。
これからも、宇治の名所のひとつとして優雅な姿を川面にうつしていくことでしょう。』
                           出典:【宇治橋の駒札】より

橋寺(放生院)
宇治市宇治東内11
京都駅から、
JR奈良線で「宇治」下車、徒歩10分