泉涌寺道から歩くこと5分で、泉涌寺の総門となる。
その横にあるのが、七福神の第一「福禄寿」となる、即成院がある。
通称を、那須与市さんと言う。

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なぜ即成院が那須与市さんと呼ばれるかというと、この寺には那須与市の墓と伝えられる、石造宝塔があるからである。
与市の墓とされる宝塔には、外からは参拝することは出来ず、本堂の中を通ってのお参りとなる。
那須与市なる人物は、平安時代末期の武将で、現在の栃木県那須郡の出と云われている。
治承・寿永の乱で、源氏方について戦功を上げ、丹波・信濃に5ケ国を賜っている。
と書くと、与市の人物像がはっきりしないのだが、源平の屋島の戦いで、平氏の軍船に掲げられた扇を弓で射落とすという離れ業を行なった人物だといえば、誰しも与市なる人物が身近にみえて来る。

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その扇を射落とした場面を、平家物語(巻第十一の五那須與一の事)では、
『「今日は日暮れぬ、勝負を決すべからず」と源平共に兵を引いた所に、立派に飾りたてた小船が一艘、「年の齢十八九ばかりなる女房の……皆紅の扇の、日出したるを」舟枻(ふなだな:舷に沿って棚のように渡してある板)に挟み立てて、陸に向かって招きいる。
判官(義経)が「誰かある」と問うと、「下野国の住人、那須太郎資高が子に、與一宗高こそ」と申し、與一が呼ばれこの扇を射ることとなる。
ころは二月十八日酉の刻、「南無八幡大菩薩・・・」と心に祈念して、「鏑をとってつがい、よっ引いて表と放つ」と「鏑は浦響しほどに長鳴して」扇の的を射抜くのである。
「鏑は海に入りければ、扇は空へぞ揚りける。春風に一揉二揉もまれて、海へさっとぞ散たりける」とある。
そんな与市であるのだが、与一は出陣する途中、病に罹ったが即成院に参籠し、本尊阿弥陀如来の霊験で平癒し、屋島の戦いで戦功をたてたので、仏徳に感じて出家し当院に庵をむすび、一生を終えたと伝えられ、即成院に与市の墓所があるのである。

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駒札には、
『山号を光明山とする真言宗泉涌寺派の寺である。
寺伝によれば、正暦3年(992)、恵心僧都(源信)により伏見(宇治川北岸)に建立された光明院を起源とする。
寛治年間(1087~1094)に橘俊綱(藤原頼通の子)が山荘を造営するにあたり、光明院を持仏堂として傍らに移設し、後に山荘を寺院と改めてからは伏見寺または即成就院と呼ばれていた。
宇治川を挟んで向かい側には父、藤原頼通の宇治殿改め平等院が建っており、父子相呼応するような寺院建立の経緯である。
文禄3年(1594)、豊臣秀吉の伏見築城のため、深草大亀谷に移転し、さらに明治時代に至って泉涌寺山内に再興され、即成院と呼ばれるようになった。
本堂には、仏像群としての形式は極めて珍しい阿弥陀如来像並びに二十五菩薩像(重要文化財)が安置され、境内には平安時代の武将であり、弓の名手であった那須与一の墓と伝えられる石造宝塔がある。
寺伝によれば、与一は出陣する途中、病に罹ったが当院に参籠し、本尊阿弥陀如来の霊験で平癒し、屋島の戦い(源平の戦い)で戦功をたてたので、仏徳に感じて出家し当院に庵をむすび、一生を終えたと伝えられている。』
                           出典:【即成院の駒札】より

那須の与一さん(即成院)
京都市東山区泉涌寺山内町28
京都駅から、
市バス、D2乗り場から「88」「208」系統で「泉涌寺道」下車、徒歩10分