清水寺から、茶わん坂(清水新道)を通り五条坂に出ると、日限地蔵(ひぎりじぞう)の安祥院がある。
安祥院は、木食正禅上人が享保10年(1725)に、南区久世の地から現在の地に移転し再興したとされる。
五条坂に面した山門には、左に「梅田雲浜先生墓当院内」、右に「日限地蔵尊」の石碑が建っている。
駒札には、
『当寺は浄土宗総本山知恩院に属し、名称は東山木食寺安祥院という。
もとは南区久世大藪町にあったが、衰退し、江戸中期の享保年間木食正禅養阿上人が、現在の五条坂に再建したのが始まりである。
上人は貞享4年(1687)洛中に生れ、24才の頃、四宗兼学の泉涌寺で僧侶としての第一歩を踏み出した。
正徳元年(1711)高野山で木食行を修め、苦行の甲斐あって大阿闍梨の位を授けられた。
本尊阿弥陀如来は上人の自作である。
安祥院は、霊元法王、実鏡寺宮をはじめ、上人に帰依する善男善女の浄財によって、享保12年(1727)諸堂落成、盛大な法要が営まれたという。
又、寺内に祀られる地蔵尊は、総高2.6メートルに及ぶ、金剛半跏像で、これには霊元法王、各宮方が寄進された多くの銅鏡が鋳込まれたという。
俗に「日限地蔵」の名で親しまれ、一定の日限を切って願い事をすると、開運、厄除け、家運などに霊験があると伝えられている。』
出典:【安祥院の駒札】より
梅田雲浜(うめだ うんぴん)は幕末の儒学者で、若狭国小浜藩の出である。
嘉永6年(1852)ペリーが浦賀沖に来航すると、条約反対と外国人排斥の攘夷を唱え、尊皇攘夷の先鋒となった。
しかし、そのことで安政の大獄で二人目の捕縛者となり、京から江戸に送られた。江戸で拷問を受け、それにより45才で亡くなっている。
時世に、「君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり」と詠んでいる。
雲浜の墓は全国にあるが、その一つがこの安祥院の中にある。
また本堂には、木食正禅上人(養阿)が自作したと云われる阿弥陀如来像が、そしてその横にある地蔵堂には、養阿が享保15年(1730)、霊元法王らの寄進を受け彫った、「日を限って願い事をすると、必ず叶う」という、日限地蔵尊が祀られている。
その境内には、正禅上人自筆の大日三尊・光明眞言碑があり、その左に西京極、佃橋(旧天神川)から移された橋桁石が残されている。
正禅上人は、木食上人(米や野菜を食べずに、木の実や山菜のみを食べ修行をする僧をいう)の一人で、江戸時代中期の僧である。
この安祥院を再興したのを始め、真如堂の本堂横にある大仏の建立などを行った。
また土木にも業績があり、特に京の入口である日ノ岡峠の改修工事に尽力をつくした。
橋の改修も多く手がけ、西京極の旧天神川佃橋の橋桁が境内に残っていて、木食上人という文字が刻まれている。
日限地蔵(安祥院)
京都市東山区五条通東大路東入遊行前町560
京都駅から、
市バス、D2乗り場から「86」「206」系統で「五条坂」下車、徒歩5分



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