京都では金戒光明寺を「くろ谷さん」と呼ぶ。なぜ黒谷さんと呼ばれているかというと、承安5年(1175)法然上人が比叡山西搭の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが起りで、正式名は金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)であるが、地元ではくろ谷さんで親しまれている。
くろ谷さんの西門を入り少し歩くと、山門に出会うこととなる。
この山門は、古くは応永年間に建てられたが、応仁の乱で焼失し350年後の徳川幕府によって、文政11年(1828)に再建に取り掛かり、万延元年(1860)の12月に落慶されたものである。
駒札には、
『この山門は江戸幕府の命により、文政11年(1828)再建にとりかかり、万延元年(1860)12月に落慶されたものである。
古くは当寺九世定玄上人の時代(1398~1415)応永年中に建立されたが、応仁の乱にて兵火に罹り焼失し、約三百五十年後に再建された。
山門楼内壇上正面には等身座像の釈迦三尊(釈迦・文殊・普賢)と十六羅漢の像が安置されている。
山門楼上の勅願「浄土真宗最初門」は、後小松天皇(在位1382~1412)のご宸翰(しんがん)で、元祖法然上人が最初に浄土の教えの真実義を弘められた念仏発祥の地との意を賜ったものである。
尚、東西本願寺・仏光寺などの宗派名を表すものではありません・』
出典:【山門の駒札】より
駒札には、
『紫雲山と号する浄土宗の大本山で、通称、黒谷(くろだに)の名で親しまれている。
寺伝によれば、承安5年(1175)、法然上人が浄土宗の確立のために、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが当寺の起こりと伝えられている。
以後、浄土教の念仏道場として栄え、後光厳天皇より「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ばれるに至った。
また、正長元年(1428)、後小松天皇より、上人が浄土教の真実義を悟った由緒により「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。
御影堂脇壇には、京都七観音・洛陽三十三観音の一つ、吉田寺の旧本尊と伝えられる千手観音立像を安置している。
また、御廟には上人の分骨を納め、廟前には熊谷蓮生坊(くまがいれんせいぼう:直實(なおざね))と平敦盛の供養塔二基が建てられている。
寺宝としては、山越阿弥陀図・地獄極楽図等の屏風や法然上人直筆の一枚起請文など数多くの文化財を蔵し、墓地には、国学者山崎闇斎、茶人藤村庸軒(ふじむらようけん)、箏曲開祖八橋検校(やつはしけんぎょう)などの墓がある。』
出典:【金戒光明寺の駒札】より
くろ谷さんの搭頭である西雲院の墓所に、会津小鉄のお墓があった。
会津の小鉄こと、上坂仙吉は幕末の侠客で(今でいう暴力団とは少し質が違う)文久2年(1862)に会津中将、松平容保が京都守護職として上洛した頃に、会津屋敷に入り込んで中間として働く一方、会津印の半纏を着て、賭場あらしなどをやっていたらしい。
持った長脇差が曽根虎徹であったところと短矩から小鉄と仇名され、いつしか会津の小鉄と呼ばれるようになったとある。
駒札には、
『本名上坂仙吉、天保四年大阪に生れ、父は東国浪士と聞くがその顔を知らず。
母もまた、仙吉幼少にして旅に死す。
少年にして大阪を捨て江戸を経て京都下京区三ノ宮通りに住居を置き、京の顔役大垣屋清八に見込まれ男を売る。
文久二年会津藩主松平容保侯京都守護職として千兵を率いて当黒谷に本陣を置くや、其の知遇を受け若年にして元締となる。
会津侯の為、亦新撰組の影の協力者として活躍、幕末動乱の京洛の地に其の侠名を謳われ会津の小鉄と呼ぶ。
蛤御門の変及伏見鳥羽の戦に兵糧方、及戦死傷者の収容の任に就いて参戦、蛤御門の変には会津侯より感状を授る。
特に伏見鳥羽の戦には会津軍敗退するや、其の戦死者の遺体は朝敵の汚名の元、世人は後難を恐れ戦場の雨露に晒され、無残にも放置されたるを、配下を動員し、死を決し捜索、収容、埋葬すると言う美挙がある。
明治十八年三月十九日洛北、北白河に歿す。享年五十三才。』
出典:【銘文 会津小鉄の駒札】より
又、この西雲院には会津藩士の墓所があり、幕末の京都で斃れた二百三十七霊と鳥羽伏見で戦死した百十五霊を祀った、会津藩殉難者墓地がある。
京都守護職の本陣を金戒光明寺に置き、家臣一千名を駐屯させ京の治安を守ることになったが、会津家臣の犠牲も多くこの地に墓所を設けその菩提を弔うこととした。
文殊さんは日本に多々あるものの、日本三文殊といわれるのが、安倍文殊院(奈良桜井市)、切戸文殊(京都天橋立(知恩院)と、黒谷文殊堂(京都東山(金戒光明寺)である。
『この塔は、寛永10年(1633)に伊丹重好(豊永宗如堅斉)が以前に仕えていた二代将軍徳川秀忠公の菩提を弔う為に建立した。
内部には文殊菩薩が祀られたいたが、平成20年4月御影堂左脇壇に遷座された。
現在は本尊として文殊菩薩のご分身(浄鏡)をお祀りし左右の脇壇には、重好公とその両親、当山二十八世潮呑上人の木像が安置されている。
御影堂に遷座された文殊菩薩は、運慶作と伝えられ善財童子・優填王・最勝老人・仏陀波利三蔵を従えた渡海文殊形式で日本三文殊随一として信仰を集めている。』
出典:【三重塔の説明】より
熊谷次郎直実が出家の時に法然上人を訪ね、方丈裏の池で鎧を洗い、この松の木に掛けて出家をしたといわれる「鎧掛けの松」である。
初代の松は枯れて、この松は二代目だそうである。
熊谷直実は源平合戦の元暦元年(1184)の「一の谷の戦」で、平敦盛に出会い沖の船に向かっている敦盛を呼び戻し、勝負の末にその首を切り落とした源氏方の武士である。
明治39年に作られた「青葉の笛」という歌に、
「一の谷の軍(いくさ)破れ討たれし平家の公達あわれ 暁寒き須磨の嵐に聞こえしはこれか青葉の笛」
と歌われている平家の公達が、平敦盛、若干14才、この時に腰にだずさえていたのが「名笛小枝」の笛であり、これを歌ったのが青葉の笛である。
このことがあり、世に無常を感じた熊谷直実は京都黒谷の法然上人を訪ね出家することになるのである。
鎧掛けの松越しに御影堂が見える。
紫雲山黒谷金戒光明寺は法然上人ゆかりの地である。
大殿は、昭和19年に再建され昭和の代表的な木造建築といわれている。
そこから小さい道を歩くと、くろ谷さんの北門がありここを出るとすぐに真如堂が見えてくる。
くろ谷さん(金戒光明寺)
京都市左京区黒谷町121
京都駅から、
市バス、A1乗り場から「5」系統で「東天王町」下車、徒歩15分






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