京都御苑の西、下立売御門を出て烏丸通を挟んで向いにあるのが、菅原院天満宮神社がある。

01鳥居mid
この地は菅家邸のあった場所で、菅原家は道真より遡ること三代前の古人公の時に菅原姓を名乗っている。
この古人公よりこの地に邸を構え、祖父清公卿、父是善卿と三世に亘って住んだ邸宅の跡で、道真公はここで生まれたと云われている。
菅原道真の誕生については諸説あり、生まれた場所も、菅大臣神社(下京区)や吉祥院天満宮(南区)また奈良の善光寺(奈良市菅原町)などがあり、この場所も菅公生誕の地とされているのだが、どの地が真実なのか興味深いところである。
この天満宮には道真公が産湯に使った井戸と燈籠が残っている。

02本殿mid
駒札によれば、
『祭神は、菅原道眞公/菅原是善卿/菅原清公卿
当、菅原院天満宮神社は、従四位、下治部卿菅原古人朝臣。次は、従三位、清公(きよただ)卿。
次は、参議是善(これよし)卿の三世、子々相傳へて棲み給ひし邸宅の趾にて、やがて是善卿の御子「道眞公」の誕生し給ひし霊地なり。
古人朝臣は桓武天皇に仕えて侍讀(じどく:天皇の側に仕え学問を教える)となり。清公卿は嵯峨、淳和、仁明の三帝に歴仕(れきし:代々に仕えること)し、是善卿は文徳、清和のニ帝に奉仕して、俱(とも)に侍讀の栄職におはせしかば、此邸宅をも受継ぎ住み給ひしより、世には菅原院と呼びたりとぞ。
拾芥抄(しゅうがいしょう:中世の百科事典)を案ずるに、菅原院は勘解由小路(下立売通)烏丸の西一町(室町迄)管贈太政大臣の御所、或は伝く、参議是善卿の家なりと。
当時、歓喜光寺と号し、北野祭の日神氏此所に来りて、枇杷(びわ)を取りて神に供すと。
又、京城の古図には烏丸、西室町、下立売、南椹木町の間を菅原院と記せり。
蓋し(けだし:まさしく、たしかに)往古は境域の広大なりしを知る可きなり。
又、袋草子国宝北野縁起(藤原信實朝臣筆)管氏録に拠れば、菅原院は是善卿の旧邸地にして、菅公は此の處に於いて御誕生あらせられし、爾来菅公襲ひて邸宅とし給ひついで菅家のために、此地に歓喜光寺を創建せられしが、後故ありて六條道場に移せし由見えたり。
然れば、そのかみ此地に社殿を存し、菅原道真公を本座とし相殿に、叔父・是善卿を奉祀して古くより、断ゆること無く今に至れり、實に是れ管公御発祥の霊地にして、聖蹟廿五拝の第一にして今も尚、産湯の井及び天満宮御遺愛の石燈籠一基を存せり。』
                     出典:【菅原院天満宮由緒書の駒札】より

03猿丸大神mid
この神社の末社に「梅丸大神」という神が祀られている。
この末社の謂れはよく分からないというのだが、ある公家さんが明治の東京遷都により東京に移る際に、ここに預けたのだといい、おでき、腫物を治すことで知られ、神社の前にある「平癒石」を擦りその手で患部を擦ると腫物が治ったということから、現在は癌を封じ込めるご利益があると信じられ、神社では「ガーゼハンカチ」を授け、これを平癒石にかざし患部に当てると癌が封じられるのだという。
学問の神と癌封じの関係は定かではないが、近年は学業成就と共に癌封じを祈願する人も絶えないという。