京都駅から市バスの、101・205・206系統に乗り「大徳寺前」で降り、歩いて7分ほどの所に「今宮神社」がある。
今宮神社の建つ辺りは紫野と呼ばれ、平安京の大内裏から北、船岡山の北東に接する平らな地域の総称で、洛北七野の一つであった。
七野は平安京の外であり、天皇や貴族の狩猟地や別荘地だったようで、蓮台野のみが、東山の鳥辺野や嵯峨の化野と共に三大葬送地であった。
洛北七野は、
内野・・・平安京大内裏
北野・・・平安京大内裏の北側
平野・・・平野神社の辺り
上野・・・今宮の北辺り
紫野・・・船岡山から北東の大徳寺にかけて
蓮台野・・船岡山から西の紙屋川にかけて
〆野・・・不詳(茜さす紫野行き〆野行き 野守は見ずや君が袖ふる)
とあり、平安京大内裏の北側が洛北で、ここに七つの野(地域)があり、洛北七野と呼ばれていた。
今宮神社の境内は思ったよりも広く、木々が茂り静かな雰囲気を醸しだしている。
本殿は江戸時代の再建で、その西にある疫神社は、古くから紫野の地に祀られており、これがこの社の起源だと言い、古来疫病除の神として名高い。
駒札には、
『大己貴命(おおなむちのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)の三柱を祀る神社で、正歴5年(994)に船岡の上に創立されたといわれ、疫病の神として信仰が厚い。一条天皇は疫病鎮めのために御霊会を修せられ、長保3年(1001)に初めてこの三柱を現地に勧請せられた。
本殿は、明治35年(1902)の再建で、その西にある疫神社は本社が鎮座される以前からあったといわれ、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る。今宮の名は、この古い疫神社に対し、て新しい宮を意味する名称である。
なお、4月第二日曜、当社で行う「安良居祭(やすらいまつり)」は桜の開花の頃に行う病鎮めの祭事であり、この時に立てられる風流傘の下を潜ると病気に罹らないと云われている。
この祭は、「鞍馬の火祭」「太秦の牛祭」とともに、京の三奇祭と云われている。』
出典:【今宮神社の駒札】より
「玉の輿」という言葉がある。その意味する処は、身分の低い女性が、金持ちの男性に見初められ裕福になるというものだが、その語源になったのが、今宮神社に関わりがある「桂昌院」だという。
桂昌院は、徳川三代将軍・家光の側室で、五代将軍・綱吉を生んだ女性で、もとは京都西陣の八百屋の娘で、その名を「玉」と言った。
この「お玉」が徳川家光に見初められ、五代将軍の綱吉を生み、春日局を超える従一位の官位を授けられるまでに登り詰めたことで、「玉の輿」の起源は「お玉」だと言われている。
その時に江戸まで輿に乗って行ったことから「玉の輿」と言われるようになったのだと言うのだが、本当は、貴人の乗る立派な輿のことを「玉の輿」と言い、身分の低い女性が結婚で立身出世することを「玉の輿に乗る」と言うのだそうである。
そんな故事に因んだ「玉の輿守り」を求めに、若い女性の参拝が絶えないのである。
今宮神社にある「桂昌院(お玉の方)」の碑文によると、
『桂昌院は、寛永5年(1628)、西陣で八百屋の次女に生れ、名を玉といった。その後公家二条家に出入りの本庄宗利の娘となり、関白家の鷹司孝子に仕えたが、やがて孝子が将軍家光に入嫁するのに伴われて江戸城に入り大奥で仕えている。
うち、春日の局に認められて家光の側室となり、後に五代将軍となる綱吉を生んでその生母となり、晩年には従一位に叙せられ、世に畏敬されつつ、至福のうちに、宝永2年(1705)79才で没した。
桂昌院は、終生神仏を敬うこと深く、報恩感謝の心厚かったが、とりわけ西陣の産土の神の座す今宮社が、当時荒れているのを嘆き、元禄7年(1694)から、時の奉行に命じて、社殿を造営・神領を寄進。
そのため神域は面目を一新したという。
また祭礼も、途絶えていた「やすらい祭」を復活させ、「今宮祭」には、御牛車・鉾などを寄進、また御幸道を改修し、氏子地域を拡げるなど、大いに復興に努めたので、祭は往時を凌ぐほどの盛況を取り戻した。
更に元禄12年(1699)には、江戸護国寺の地に今宮の神を分祀して今宮神社とし、毎年今宮祭を祭行したと伝えられている。(文京区音羽町に現存)
そのため神域は面目を一新したという。
また祭礼も、途絶えていた「やすらい祭」を復活させ、「今宮祭」には、御牛車・鉾などを寄進、また御幸道を改修し、氏子地域を拡げるなど、大いに復興に努めたので、祭は往時を凌ぐほどの盛況を取り戻した。
更に元禄12年(1699)には、江戸護国寺の地に今宮の神を分祀して今宮神社とし、毎年今宮祭を祭行したと伝えられている。(文京区音羽町に現存)
こうした桂昌院の業績は、没後三百余年を経た今日でも、神社中興の祖として、その遺徳を讃える産子(うぶこ)が多い。また、一面、一介の市井人から、身を起こし乍、所謂「玉の輿」を昇りつめた類まれな女性として、その生涯を思慕する人々も少なくない。』
出典:【桂昌院(お玉の方)の碑文】より
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