京の町では寺社の境内で、縁日や市が開かれている。
なかでも、毎月21日に東寺で開かれる「弘法さん」と、25日に北野天満宮で開かれる「天神さん」は有名である。
弘法大師(空海)の月命日である21日に、東寺の境内で開かれるのが「弘法さん」と呼ばれる縁日で、室町時代の頃から始まったようで、日の出から広い境内に数百の露店が出、それを目当てに老若男女が押しかけ、読経と香煙がたちこめる中で、道具・衣類・植木などを見てまわり、日が暮れるまで多くのひとが買い物を楽しむ。
12月21日を「終い弘法」、1月21日を「初弘法」といい、年越しと年始めの市として、特に人出が多く賑わいをみせる。
「弘法さん」には「笹屋伊織」さんが東寺東門の北に露店を出し、長さ20センチ、直径4センチの円柱形をした「どら焼き」を販売する。
弘法大師とは、延喜21年(921)に醍醐天皇より賜った諡号(しごう・おくりな)で法名を「空海」という。
真言宗の開祖であり、嵯峨天皇、橘逸勢とともに、日本三筆のひとりである。
生まれは讃岐の国(今の香川県善通寺市)で四国四県の山林や室戸岬の御蔵洞などで修行を重ね、延暦23年(804)に遣唐使の留学僧として唐に渡る。
唐にての修行に成果を得て、大同元年(806)に無事帰国を果たすと、唐で学んだ真言密教を世に広め、東寺の創設や高野山を開くなどし、天台宗の開祖「最澄」とともに、旧来の「顕教」から新しい「密教」への流れを作ったのである。
空海というよりも、おくり名の「弘法大師」という名が、「空海を超え千年の時を超え」世の中に受入れられ、大師を賜った人は27名に及ぶが、お大師さんといえば「弘法大師」なのである。
空海が修行をした四国の寺々が今、四国八十八ヵ所となり、世の悩める人々を浄土へと導いてくれる。お遍路さんの背中には「同行二人」と何時もお大師さんと道連れで歩いているのである。
菅原道真公の生まれた6月25日と、薨去した2月25日を「御縁日」として、25日に北野天満宮で開かれる縁日を「天神さん」と呼ぶ。
「天神さん」もまた、色々な物を扱う露店が並び、朝から日没まで大勢の人で賑わう。
特に12月25日を「終い天神」、1月25日を「初天神」といい、北野天満宮への参拝と合わせいつもより活気をみせるのである。
「天神さん」では、北野天満宮の東門に、豊臣秀吉が好み名を付けたという「長五郎餅」の茶店が出る。
菅原道真は、宇多天皇や醍醐天皇の時代の学者・漢詩人・政治家で、承和12年(845)から延喜3年(903)を生きた人物である。
宇多天皇にその才を認められ、政権の中枢へと昇り詰めてゆき、時の権力者藤原氏と肩を並べるほどになり、醍醐天皇の御代、昌泰2年(899)ついに藤原時平が左大臣、須賀道真が右大臣という地位まで出世するのだが、出る杭は打たれるの例え、昌泰4年(901)に、藤原時平の讒言により九州の大宰府に左遷となり、都を去る時に「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠み、その梅が都から一晩で大宰府の道真の屋敷に飛んで来たという「飛び梅」の話は有名である。
その2年後、道真は失意のうちに亡くなるのである。
菅原道真が亡くなってから、宮では異変が相次いで起きるのである。
まずは、道真を陥れた藤原時平が延喜9年(909)に39才で病没、この時危篤の時平平癒の祈祷を行った際に、耳から青龍姿の道真が現れ、時平は息絶えたという。
延喜13年(913)には、道真の左遷に関わった右大臣源光が、狩の最中に泥沼にはまり溺死したが、その亡骸は浮かんでこなかったという。
その後も時平の息子達も若くして亡くなり、さらには延長8年(930)清涼殿に落雷があり、多数の死傷者が出た。
これら一連の出来事は道真の祟りだと恐れられ、道真の怨霊を鎮めるために北野天満宮を始め、多くの神社が建立されることになる。
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