表題の「江」と「福」と言っても誰のことか分からないと思う。
「江」は「ごう」と読み、徳川二大将軍秀忠の正室であり、「福」は三代将軍家光の乳母で春日局と呼ばれた大奥の権力者である。
金戒光明寺には、この二人の供養塔が建っているのである。
金戒光明寺は駒札によると、
『紫雲山と号する浄土宗の大本山で、通称、黒谷(くろだに)の名で親しまれている。
寺伝によれば、承安5年(1175)、法然上人が浄土宗の確立のために、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが当寺の起こりと伝えられている。
以後、浄土教の念仏道場として栄え、後光厳(ごこうごん)天皇より「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ばれるに至った。
また、正長元年(1428)、後小松天皇より、上人が浄土教の真実義を悟った由緒により「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。
御影堂脇壇には、京都七観音・洛陽三十三観音の一つ、吉田寺の旧本尊と伝えられる千手観音立像を安置している。
また、御廟には上人の分骨を納め、廟前には熊谷蓮生坊(くまがいれんせいぼう)(直實(なおざね)と平敦盛の供養塔二基が建てられている。
寺宝としては、山越阿弥陀図・地獄極楽図等の屏風や法然上人直筆の一枚起請文など数多くの文化財を蔵し、墓地には、国学者山崎闇斎、茶人藤村庸軒(ようけん)、箏曲開祖八橋検校(やつはしけんぎょう)などの墓がある。』
出典:【金戒光明寺の駒札】より
2006年11月にここを訪ねた時には、江の供養塔への案内などはなく、文殊堂に参るのみで二つの供養塔があることすら知らなかったのである。
江の人生も、福の人生もともに数奇な人生を歩んでいるのだが、その二人が徳川という所で出会い、一方は次男の忠長を、一方は長男の家光を将軍にと考え確執を生むのだが、江と福の本心はどこにあったのかと、思いばかるのみである。
江の供養塔の前には、
『徳川二代将軍秀忠の室。名はお江(ごう)、あるいはお江与、諱(いみな)は達子という。
父は戦国の武将近江小谷城主浅井長政、母は織田信長の妹小谷の方お市。
天正元年(1573)に生まれる。姉に豊臣秀吉の側室淀殿、若狭小浜城主京極高次の室 お初(常高院)がある。
同年8月、浅井氏が滅びたのち、母姉とともに伯父信長に養われ、同年10年、母お市が越前北庄城主柴田勝家に再嫁する際、姉二人とともにそこに伴われ、翌年、柴田氏が滅び、母お市も自害すると、姉とともに秀吉のもとに引き取られた。
のち秀吉の養子丹波亀山城主豊臣秀勝(秀吉の姉瑞竜院日秀の次男)に嫁して女子(秀忠養女・九条幸家室・同道房母)を儲けたが、文禄元年(1592)9月、秀勝が没するに及んで寡婦となった。
一説によると、秀勝のもとに入興する以前に、尾張大野城主佐治与九郎一成に嫁し、後日一成が秀吉の忌諱(きき:機嫌を損なう)にふれて離別したという。
同4年9月、秀吉の計らいによって秀忠に再嫁し、家光・忠長の二男、千姫・子々姫・勝姫・初姫・和子の五女を儲けた。
この内、元和6年に五女和子は入内した(東福門院)。
寛永3年(1626)9月15日没。54歳。法名は、崇源院殿昌誉和興仁清。墓所は、東京芝の増上寺。
この墓は、家光の乳母にして、三代将軍をめぐって夫人と争った春日局が、同夫人の死後、追善菩提のため建立したもので、夫人に遺髪が納められている。』
出典:【徳川秀忠夫人崇源院】より
福の供養塔の前には、
『徳川三代将軍家光の乳母。名は斎藤福、通称お福。
天正7年生まれ、明智光秀の重臣斎藤利光の三女。母は稲葉一鉄の娘で稲葉あん。
母方の稲葉重通の養女となり文禄4年(1595)17歳の時、同じく養子の正成に嫁し、稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利らを産み、のち離婚。
慶長9年(1604)二代将軍秀忠の長男家光出生に際し京都所司代板倉勝重の推挙により乳母となる。
家光には二歳下の弟忠長があり、父秀忠と正室お与江の方はこれを寵愛し、徳川家家臣も有力諸大名たちも忠長を時期将軍とみなし始め、世継ぎの序列も逆転するような状況に至り、お福は危機感を強め大いにこれを憂え、慶長15年(1610)伊勢参宮に託して駿府で大御所家康にこの旨を伝え、家康は鷹狩りと称して江戸に上り次期将軍は家光と定めた。世にこれを「春日の抜参り」という。』
寛永3年(1626)大奥を統率し、絶大な権勢を振るうとともに、将軍家光に対しても影響力をもった。
後水尾天皇が幕府の処置に対し譲位の意志を示すさなか、お福は大御所秀忠の内意を受け上洛し公卿三条西家の娘として参内する資格を得て後水尾天皇や中宮和子に拝謁、また従三位の位と「春日局」の称号、および天杯も賜った。後に官位は従二位にまで昇叙した。
晩年は、湯島に屋敷を賜り、天沢寺(麟祥院)を建立し余生を過ごした。
寛永20年9月14日寂、享年65。墓は湯島麟祥院にある。
金戒光明寺とも縁が深く、寛永5年(1628)2月15日一山供養により二代将軍秀忠正室お江与の供養塔を建立、同年極楽橋(木造)再建、寛永11年駿河大納言忠長の供養塔を建立した。
辞世の句「西に入る 月を誘い(いざない) 法をへて 今日ぞ火宅を 逃れけるかな」』
出典:【春日局供養塔】より
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