京都駅から市バスのA2乗り場から17系統か、D2乗り場から206系統のバスに乗り、「百万遍」で降りて3分の所に「知恩寺」がある。

01山門mid
「百万遍」の名は、ここにある「知恩寺」に由来する。
後醍醐天皇の御代に、天変地異が多発し、天皇の勅令により知恩寺の空円が、七日七夜にわたり「南無阿弥陀仏」の念仏を百万遍唱えたことにより、天変地異が収まったことから、「百万遍」の称号と、弘法大師が造ったという540顆(つぶ)の念珠を下賜されたことから、百万遍の名と念珠を繰りながら念仏を唱える「百万遍大念珠繰り」が始まったという。

02念仏堂mid
大念珠は重さ350Kg、長さ110cm、玉数1080個と、珠数とは言えないほどの大きさで、昭和5年(1930)に初代が、昭和55年(1980)に二代目が、平成24年(2012)に三代目が造られている。
「大念珠繰り」は誰でも参加出来「南無阿弥陀仏」を唱えながら、百万遍は回せないとしても、可能な限りの繰れる数を回して功徳を頂きたいものである。

03本堂mid
長徳山功徳院といい、浄土宗四大本山の一つである。
もとは今出川の北(今の相国寺の辺り)にあり、釈迦堂と呼ばれ賀茂神社の神宮寺であったが、のち法然上人の御影堂を建て、功徳院知恩寺と名付けたのが寺の起こりと云う。
その後、寺地は各地を転々とし現在の場所に移ったのは、寛文元年(1661)の光誉上人の時だという。
駒札には、
『長徳山功徳院(くどくいん)と号し、浄土宗八総大本山の一つである。
もと賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社の総称)の社領とされた今出川の北(今の相国寺の辺り)に賀茂の河原屋と呼ばれる草庵があり、賀茂宮司の懇請により法然上人もこの庵に止宿し、布教の地とした。
上人の死後、勢観房源智上人が尊師を敬慕し、その地に御影堂を建て功徳院知恩寺と名付けたのが当寺の起こりで、賀茂社の神宮寺としての起源を持つ。
元弘元年(1331)、疫病が流行した際、第八世の善阿(ぜんな)上人が御所にこもり、七日がかりで百万遍の念仏を唱えて疫病を退散させたので、後醍醐天皇から「百萬遍」の寺号を賜った。
その後、各地を転々とし、寛文元年(1661)にこの地に移った。
本堂には、本尊として法然上人四十三才の頃の姿を現したと伝える木像を安置し、その東南の御堂には釈迦如来座像を、西方の阿弥陀堂(念仏堂)には阿弥陀如来立像をそれぞれ祀る。
重要文化財の顔輝筆「蝦蟆鉄拐図(がまてっかいず)」をはじめ、多くの寺宝を所蔵し、墓地には法然上人や源智上人の廟、画家土佐光起の墓などがある。』
                        出典:【百万遍知恩寺の駒札】より