JR「嵯峨嵐山」の駅で降り、北西に10分ほど歩くと「清凉寺」がある。
市バスでは、京都駅C6乗り場から28系統「大覚寺」行きに乗り、「嵯峨釈迦堂前」で降りるとすぐである。

01仁王門mid
清涼寺はもと嵯峨天皇の離宮があった所で、皇子・源融が棲霞館と名付けた山荘を儲け、後これを寺として棲霞寺と呼んだ。
その後、宋に渡った奈良東大寺の僧・奝然(ちょうねん:938~1016)が帰国し、持ち帰った釈迦如来像を安置する寺を建立しようとしたが、その願いが叶わぬまま、長和5年(1016)奝然は没したので、弟子の盛算(じょうさん)がその志をついで棲霞寺の境内に建立したのが、清凉寺である。

02釈迦堂mid
清凉寺は愛宕山の麓に伽藍が並び、「嵯峨釈迦堂」とも呼ばれる。
本堂(釈迦堂)には、「生身(しょうじん)の釈迦」と伝わる「釈迦如来立像」が安置されているのだが、この立像は、奝然が永観元年(983)に中国の宋に入り、2年後にインドの釈迦の弟子・優填王(うてんおう)が、37才のときの釈迦の姿を彫らせた像に出会うと、奝然はその像を模刻させ、永延元年(987)にこの仏像を日本に持ち帰るのである。

03阿弥陀堂mid
この像は高さ160センチで、「魏氏桜桃」という中国のサクラ科の木で出来ており、顔立ちは、シルクロードをへてインドに溶け込んだというような、エキゾチックな面持ちであり、両肩の衣は円を描きながら首筋に垂れている。
じっと立像を見ていると、これが生身のお釈迦さまの姿なのかとの思いが湧いてくるので、不思議である。
また昭和28年(1953)に、像の体内から布製の五臓六腑の模型が見つかり、雍煕(ようき)2年と宋の年号が書かれており、奝然が彫らせたものだということが証明されている。

04嵯峨薬師寺mid
駒札には、
『五台山と号する浄土宗の古刹で、「嵯峨釈迦堂」の名で知られている。
この地には、一説では「源氏物語」の主人公の光源氏のモデルであったといわれる源融の山荘、棲霞観(せいかかん)があり、融の没後、棲霞寺としたのが当寺の始まりである。
天慶8年(945)に等身大の釈迦像が安置され、これが通称の由来ともいわれている。
その後、インド、中国、日本の三国伝来となる釈迦如来立像を持って宋(中国)から帰国した奝然(ちょうねん)上人が、その像を安置するため、愛宕山を中国の五台山に見立てた「大清凉寺」の建立を計画したが、志半ばで没したため、弟子の盛算(じょうさん)が清凉寺を建立して 像を安置した。
昭和28年(1953)、背中に蓋が発見され、中に内臓を模した絹製の五賊六腑なとが納められていたことから、生身のお釈迦様とも呼ばれている。
本堂は、元禄14年(1701)に徳川五代将軍綱吉、その母桂昌院らの発起により再建されたもので、本尊の釈迦如来立像(国宝)を安置しており、霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、文殊菩薩騎獅像(重要文化財)等、多数の文化財が祀られている。
このほか、境内には、奝然上人、源融、嵯峨天皇、檀林皇后の墓などがある。』
                    出典:【清凉寺(嵯峨釈迦堂)の駒札】より