京で室町幕府の足利将軍に関わる寺は、金閣寺や銀閣寺が知られているのだが、等持院もまた足利将軍に関わりのある寺なのである。

01駅mid
嵐電北野線で「北野白梅町」から一駅目が「等持院」その次が「龍安寺」の駅である。
等持院の駅は、2面2線のホームを持つ地上駅である。
ここから龍安寺の駅までを複線化する計画があったようだが、実現していない。
「龍安寺」から「等持院」までは200mほどの距離しかなく、電車が動き出したと思ったら、もうブレーキがかかっている。
もし乗り遅れても、電車を走って追いかければ「等持院」の駅で乗ることが出来ると思われるほどの速度で走ってゆくのである。

02山門mid
等持院の駅から5分ほど歩くと「等持院」である。
京都十刹の一つで、もと仁和寺の一院であったが足利尊氏が、足利氏の菩提寺として中興した。
建物は文政年間に再建され、堂内には足利尊氏以下十二代の木像が並んでいる。
幕末のころに、浪士が尊氏以下三代の首を斬って三条河原にさらしたということは有名である。
寺域は衣笠山を背景とした景勝地にあるが、この山は絹笠山・蓋山・絹掛山などとも書き、宇多法皇が仁和寺にいたとき、この山に白絹を張って雪見をされたことから、この名が付いたという。

03等持院mid
何故「等持院」が足利将軍ゆかりの寺かというと、等持院霊光殿の堂内左側に、初代・尊氏、二代・義詮、三代・義満、四代・義持、六代・義教、七代・義勝、八代・義政の初代から八代までの木像が安置されているのだが、五代・義量の像がない。
右側には、九代・義尚、十代・義稙、十一代・義澄、十二代・義晴、十三代・義輝、十五代・義昭と九代から十五代までの木像が並ぶ
ここにも十四代・義栄の像がないのである。
何故、五代と十四代将軍の木像がないのだろうか。
十四代将軍の義栄は、阿波国に生まれ将軍職を継ぐのだが、入洛する前に病没をし、天皇にも拝謁しないことは将軍として認められないとされ、ここにその木像はないのである。
では義昭は十四代将軍かというと、将軍職を重複した人物がいる。
それが義稙で十代と十二代と2回将軍となっていて、そうなると義晴が十三代となり、十四代・義輝、十五代・義昭と、通説とおりの年代となる。
一方、五代・義量の木像がないことも又、将軍として認められていなかったのではとの疑問が湧き、足利将軍の数え方は、十四代か十五代かはたまた十六代か、疑問の湧くところである。

04三条河原mid
足利将軍三代の木像の首が鴨川に晒されたことがある。
時は幕末の、文久3年(1863)2月、等持院にあった「尊氏・義詮・義満」の木像の首と位牌が盗まれて、「逆賊足利尊氏・同義詮・同義満名分を正すや今日にあたり、鎌倉以来の逆臣一々吟味を遂げ謀戮に処すべきところ、この三賊臣巨魁たるによって、先ずその醜像天誅を加えるものなり」の罪状文とともに、三条大橋の下流、鴨川の河原に晒されたのである。
あたかも徳川十四代将軍・家茂の上洛前であり、浪士隊(後の新選組)の入洛前の、京の町に血生臭い風が吹こうとする前の出来事であった。
この事件を「足利三代木像梟首事件(あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん)」という。