蛤御門は、京都御苑西側のほぼ真ん中にある門で地下鉄烏丸線の「丸太町」または「今出川」のどちらの駅からも、歩いて12分である。


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蛤御門は、本来は新在家御門と言われていた高麗門型の筋鉄門である。江戸時代の大火で、それまで開かなかったものが開けられた為に、焼けて口を開く蛤のような門と言われるようになり、いつしか蛤御門と呼ばれるようになった。

新在家御門を開かせた江戸の大火は二説があり、ひとつは、宝永5年(1708)に御所を含め、417町、1万3,000軒が焼失した「宝永の大火」

そしてもう一つは、その80年後の天明8年(1788)1月30日に、二条城や御所など1,400町、3万7,000軒が焼失した「天明の大火」である。

どちらの説も有力で、いまだにどちらの大火によってこの御門が開いたのか分からないのである。蛤御門の駒札にも、「江戸時代の大火で・・・」としか書かれてなく、どちらとも特定はしていないのである


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宝永の大火は、の下刻(13時頃)油小路通三条上ルの銭屋市兵衛宅より火が出、南西の強い風にあおられて、御所公家屋敷、寺院、町屋など、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心として広い範囲が消失をする。

火災後、「見渡せば京も田舎となりにけり芦の仮屋の春の夕暮」と書かれた落首が市中に貼られた

天明の大火とは、京で起きた最大の火災で、京都市街のほとんどが焼け、あの応仁の乱での焼失を上回る被害を起こすのである。

30日の未明鴨川東側の宮川町団栗辻子の町家から出火し、折からの強風にあおられて瞬く間に広範囲に飛び火し、洛中に延焼する

出火場所から、団栗焼け(どんぐりやけ)とも呼ばれれ、夕方には二条城本丸が炎上し、御所にも燃え移った。

東は河原町木屋町大和大路まで、北は上御霊神社鞍馬口通今宮御旅所まで、西は智恵光院通大宮通千本通まで、南は東本願寺西本願寺六条通まで達し、御所や徳川幕府の重要施設も焼失してしまい、江戸幕府も衝撃を受け、急遽老中松平定信を京都に派遣して朝廷と善後策を協議した。

最終的な鎮火は発生から日後の日(日)早朝のことだった。

参照 wikipedia蛤御門の宝永の大火・天明の大火

この二つに禁門の変でのどんど焼けを加えて「京都の三大火災」と呼ぶ。