嵐電北野線の「御室仁和寺」から「妙心寺」をすぎると、「龍安寺」の駅となり、その次が「等持院」である。
これらの駅は夫々、寺社の名が付けられた駅であり、いずれの駅もそれぞれの社寺への参詣の道となっている。
龍安寺の駅は、平成19年(2007)3月までは「竜安寺道駅」の名称であったが、駅名を改称する際に、「竜」の字を「龍」に改めて、「龍安寺」という駅名としたのである。
相対式2面2線のホームを持ち、行き違いの出来る駅となっている。この駅から立命館大学のキャンパスまでは6分程だが、北野白梅町行きのホームには、ホーム東側の先端に小さな出入口があり、ここから立命館大学へ向うようにとの案内がされている。
「龍安寺」の駅からも、南に4分ほど歩くと「妙心寺の北門」へ行くことが出来る。
この駅から、北に7分ほど歩けば「龍安寺」であるが、「仁和寺」から、きぬかけの道を東に13分ほど歩いても「龍安寺」に着く。
龍安寺は、妙心寺派十刹の一つで、始め衣笠左大臣藤原実能の別荘のそばに仏殿をつくり徳大寺といったが、後に細川勝元が譲り受けて禅院としたことに始まる。
北に衣笠の山を負い、前に鏡容池を抱え、方丈の前庭が英国のエリザベス女王も感嘆したという、虎の子渡しと呼ばれる有名な石庭である。
その駒札によると、
『臨済宗妙心寺派の寺院で、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。
もと徳大寺家の別荘であったが、宝徳2年(1450)に細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)を招いて禅院とし、玄承はその師日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を開山として、自らは創建開山となった。
一時、応仁の乱により焼失したが、明応8年(1499)に細川政元が再建し、その後、名僧が相ついで住し、豊臣秀吉や徳川氏も寺領を寄付するなどして、最盛時には塔頭23を数えるほど栄えた。
しかし、寛政9年(1797)に火災に遭い、その後次第に再建されたが、盛時の寺観は復興していない。
方丈庭園(国の史跡及び特別名勝)は、室町時代末期の作と伝えられ、枯山水の石庭として有名である。長方形の敷地の中に白砂を敷き、15個の石を配し、一木一草も用いず象徴的に自然を映し出しており、枯山水庭園の極致を示したものといえる。
あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているようにも見えるため、「虎の子渡し」とも呼ばれる。
方丈の東には、水戸光圀の寄進と伝えられる「吾唯足知(われただたるをしる)」と刻まれた石造りの手水鉢がある。太平記12冊(重要文化財)などを所蔵している。』
出典:【龍安寺の駒札】より
龍安寺と聞いて思い浮かぶのが、方丈にある15個の石を配した石庭で、広さは75坪、東西に25m、奥行10mの庭である。
白砂を敷きつめ波模様に見える筋目がついた庭に15個の石が、東から5個、2個、3個、2個、3個と配置さえれており「七・五・三の庭」とも云われ、また白砂と石だけで水の流れを表現し、あたかも虎が子を連れて渡っている姿が見えるようで「虎の子渡しの庭」とも云われている。
この石庭の不思議なことは、方丈の広縁から見ると、15個の石総てを見ることが出来ないことである。
どこから見ても石が重なり合って、一つか二つは見えなくなるのである。
作庭者が意図したものか、はたまた偶然のなせるものなのかは分からないのだが・・・
しかし方丈のある所から見ると15個の石総てが見えるという噂もあるので、訪ねたおりは、ぜひその場所を探してみては・・・
もう一つの不思議は、この庭の作庭者が不明だということであるのだが、これについては他に譲ことする。
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