ペリー来航により、鎖国の夢を覚まされた徳川幕府だが、孝明天皇は開国を望まず、時の大老・井伊直弼は勅許のないまま、通商条約を結ぶのである。
これに反発した尊王攘夷の志士たちを、直弼は弾圧をし行動を封じ込めるのである。世にいう「安政の大獄」である。
しかし安政7年(1860)3月に、桜田門外にて井伊直弼が暗殺されると、再び攘夷論が起こり、その急先鋒であった長州藩は、文久3年(1863)5月に、馬関海峡(現・関門海峡)を封鎖し、米・仏・蘭の艦船に砲撃を加えるのである。
その第一弾が発射されたのが亀山砲台で、説明文には、
『江戸末期、開国を迫る諸外国への危機感が高まり、長州藩は全国にさきがけ外敵防御策をとり、長州藩主毛利元周公は亀山八幡宮を始め、市内各地に砲台を築き攘夷戦に備えた。
文久3年(1863)5月11日、午前2時久坂玄瑞の指揮によりアメリカ商船攻撃合図の砲弾が亀山砲台から発射され、米仏蘭三国相手に6回にわたる馬関攘夷戦の火ぶたがきられた。
同年6月1日、藩主は亀山八幡宮に夷敵降伏を祈願した。
敵弾は楼門をかすめただけで社殿守兵とも損傷なく、時の人は、これ八幡大神の御神意なり、と矢よけ八幡宮と称えた。
翌年8月の4カ国連合艦隊襲来により攘夷戦は幕を閉じ、開国、尊皇討幕を経て、明治維新へと急速に時が流れた。
亀山砲台はまさに近代日本の幕開けを告げる第一弾を発射したのである。』
出典 亀山砲台跡の説明文
とある。
しかし同年6月に、米艦隊が馬関海峡にあった長州藩の軍艦を沈め、仏艦隊が砲台を占領し破壊するのである。
それでも長州藩は馬関海峡の封鎖を解かなかったので、翌年、再び米・仏・蘭の三国でもって、前田・壇ノ浦砲台、彦島に対し砲撃を加え、これを占領する。
長州の青銅砲は全く役に立たず、壇ノ浦砲台に複製された砲の説明文には、
『幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864)8月、長州藩兵と英・仏・蘭・米4ケ国連合艦隊との交戦をもって終結しただ、同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。
この歴史的事件で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲は、すべて戦利品として外国に運び去られ国内から姿を消していた。
1966年春、渡欧中の作家古川薫氏がパリ・アンヴァリッド軍事博物館に保管されている攘夷戦長州砲を発見、依頼返還運動が進められたが実現困難のところ、郷土出身の外務大臣安倍晋太郎氏の努力とフランス政府の好意によって1984年6月、貸与の形式で里帰りを見るに至った。
この機会に下関東ロータリークラブでは、フランス政府の了解を得、創立20周年記念事業として、これを現寸大かつ精密に模造し下関市に寄贈した。
同長州砲は天保15年(1844)萩藩の鋳砲家郡司喜平治信安の手になるもので、幕末日本人の対外危機感を象徴する歴史的逸品である。
鎖国に眠っていた日本史がようやく世界史に組み入れられる瞬間を目撃したこの物言わぬ証人を、海峡のほとりへ永久に安置しようとするのは、歴史に富むこの地の発展と世界平和を祈念する趣旨にほかならない。』
出典 天保製長州砲の説明文
このことで、長州藩は武力での攘夷を放棄し、欧米の新しい武器や知識を導入し、軍備を近代化すると共に、坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介により、昔年の思いを捨て薩摩藩と手を結び、倒幕への道を進んでゆくのである。
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