文久元年(1861)に、坂本龍馬は武市半平太が立ち上げた「土佐勤皇党」に加入するのだが、翌年、剣術修行の名目で、長州の萩を訪れるのである。
文久2年(1862)1月14日、坂本龍馬は土佐勤皇党首武市瑞山の手紙を久坂玄瑞に届けるため萩を訪れ9日間滞在をする。
久坂玄瑞は龍馬に、「ついに諸侯(諸大名)恃(たの)むに足らず。公卿恃むに足らず。
在野の草莽糾合、義挙の外はとても策これなし・・・失敬ながら尊藩(土佐)も幣藩(長州)滅亡しても大義なれば苦しからず」と、師・吉田松陰の「草莽崛起論」を説く。
日本を変革するのは草の根に隠れている自分たちで、そのためなら藩は滅んでも構わぬという凄まじい決意を述べるのである。
そんな思想を持つ玄瑞や長州の志士と会った龍馬は、土佐に戻ると「一藩での勤皇化は不可能である」と、脱藩の覚悟を決めるのである。
その頃、武市半平太の土佐勤皇党は参政の吉田東洋暗殺を企てていたのだが、龍馬は暗殺によって時代は動かないと考えており、武市と袂を分かち脱藩への道を取るのである。
この時、武市は「龍馬は土佐人で、あだたぬ男じゃきに」と快く脱藩を支援したという。
久坂玄瑞から聞いた「草莽崛起論」も脱藩の一因となったのは、紛れもない事実である。
久坂玄瑞は、天保11年(1840)萩藩医の三男として生まれる。
14才の時に母が、翌年には兄と父を亡くし、安政元年(1854)15才で家督を相続することになる。
安政3年(1856)九州に遊学し、そこで肥後の宮部鼎蔵から、吉田松陰に従学を勧められ、松陰の門下生となる。
高杉晋作と松下村塾の双璧、吉田稔麿・入江九一と共に、松門四天王と云われた。
安政4年(1857)には、松陰の妹・文子と結婚をする。
安政6年(1859)10月、安政の大獄で松陰が処刑されると、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深め(この集まりには、桂小五郎・高杉晋作・伊藤俊輔・山縣有朋らがいる)、水戸・薩摩・土佐の志士たちと交流を深めた。
文久2年(1862)長州藩を尊王攘夷に傾けることに成功するが、文久3年(1863)に、下関戦争が始まり長州藩は大きな痛手を受けるのである。
その年の8月18日に、長州藩は7人の尊王攘夷の公家と共に、京を追われるのだが、玄瑞は桂小五郎と共に、武力をもって京に上り無実を訴えるという急進派を抑えていたのだが、元治元年(1864)4月に薩摩・福井・宇和島の藩主が京を去ったのと、6月に池田屋事件が起きたことにより、急進派を抑えきれずに、長州藩は京へと兵を進めるのである。
蛤御門変が起き、玄瑞も堺町御門を攻めるのだが、長州に利あらず鷹司邸にて寺島忠三郎と共に自刃するのである。久坂玄瑞25才であった。
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