北政所は豊臣秀吉の正室で、秀吉と共に長浜城の城主になって以来、秀吉の出世や天下取りを影日向で支えてきた賢夫人である。
北政所とは、摂政・関白の正室の呼称であり、秀吉泣き後の慶長11年(1606)、生父母、養父母と秀吉の菩提を弔うために高台寺を開創するのである。
北政所は、寛永元年(1624)に76才で亡くなるのだが、その霊は高山寺の霊屋(おたまや)に、秀吉と共に祀られている。
霊屋には秀吉と法体姿の北政所(ねね)の木造が安置されているのだが、高台院(ねね)の像は、片膝を立てているのである。
なんと行儀が悪いと言われるかも知れないが、当時これは「胡跪(こき)」と呼ばれる女性の正式な座り方である。
高台寺は秀吉の正室「ねね」が晩年を過ごした所で、秀吉が亡くなると、北政所(ねね)は仏門に入り、高台院湖月尼といい、寺を建て秀吉の冥福を祈り、永住の地としようとし、それに徳川家康が北政所の歓心を買うために、酒井忠世や土井利勝に命じ、堂塔伽藍を建立し徳川幕府も寺領を寄付し、北政所の法号にちなんで、高台寺と名付けられた。
当時は壮観きわまりないものであったが、度々の火災にあって建物の大半が焼け落ちてしまうのである。
高台寺の駒札には、
『鷲峰山(じゅぶざん)と号する臨済宗建仁寺派の寺で、正しくは高台寿聖禅寺(こうだいじゅしょうぜんじ)といい、「蒔絵(まきえ)の寺」として広く知られている。
豊臣秀吉の妻・北政所(ねね、高台院)が、秀吉の菩提を弔うため、徳川家康の援助を受けて慶長11年(1606)に創建した。
創建当時、寺観は壮麗を極めたが、度重なる火災に遭い、現在は、開山堂、霊屋(おたまや)、表門、観月台、茶室の傘亭(からかさてい)と時雨亭が当時のまま残っており、いずれも重要文化財に指定されている。
北政所の墓所である霊屋には、秀吉夫婦の木像が安置され、須弥壇(しゅみだん)及び厨子に施された高台寺蒔絵として名高い華麗な蒔絵装飾は、室町時代の漆工芸美術の粋が尽くされている。
開山堂の臥龍池(がりゅうち)と西の偃月池(えんげつち)を中心とする池泉回遊式の庭園は、小堀遠州の作と伝えられ、国の史跡、名勝に指定されている。
寺宝として、高台院像(重要文化財)、豊臣秀吉像をはじめ、蒔絵の調度品や絵画、その他の美術工芸品など、数多くの文化財を蔵し、その一部は、ねねの道をはさんだ「高台寺掌美術館」で公開されている。』
出典:【高台寺の駒札】より
高台寺の門を下に降りると、圓徳院がある。
圓徳院は、備中国足守藩主で高台院(北政所)の甥に当たる木下利房が、伏見城の化粧殿を自らの邸に移して寺としたのに始まるが、高台院が晩年を過ごし、その生涯を終えた寺院でもある。
駒札によると、
『豊臣秀吉没後、その妻北政所ねねは、高台寺建立を発願し、慶長10(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と前庭をこの地に移築して移り住んだ。
ねねは、77歳で没するまでの19年間、この地で余生を送り、その間北政所を慕い大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等が訪れ、この地はねねの終焉の地となった。
圓徳院はねねの没後9年目(寛永9年)、甥の木下利房(足守藩主)が、高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開いた寺である。
方丈は創建時のもので、内部の襖には、長谷川等伯の三十二面の水墨画が描かれ、国の重要文化財に指定されている。
化粧御殿跡前庭は、伏見城より移した庭石や枯滝の石組が配された豪華なもので、桃山時代の枯山水庭園の様式を今に伝え、国の名勝に指定されている。
また、境内に奉祀されている三面大黒天像は、豊臣秀吉の守り本尊であり、今日でも多くの信仰を集めている。
出典:【圓徳院(北政所終焉の地)の駒札】より




コメント
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近くをバスで通ったことはあるのですが、行ったことはありませんので、いつか機会があったら行ってみたいです。
今年1年大変お世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。
拍手です。
youhobito
が
しました