後白河天皇は平安時代末期、平家や源氏など武士が台頭した頃の、平清盛や源義朝などと
共に、騒乱の時代を生きた77代の天皇(在位1155~1158)である。

01法住寺陵mid
鳥羽法皇は寵愛する美福門院(藤原得子)とのあいだに出来た子である近衛天皇を、待賢門院(藤原璋子)との子、崇徳天皇に変えて即位させるのだが、近衛天皇が若くして崩御すると、後白河天皇が77代の天皇として即位する。
しかし、これを良く思わない崇徳上皇は反旗を翻し、崇徳上皇には源為義、為朝、平忠正が、そして後白河天皇には源義朝、平清盛、重盛らが付き骨肉相争う「保元の乱」が起こり、後白河天皇が勝利する。
その後、平清盛と源義朝が戦う「平治の乱」が起こり清盛が勝利し、平氏全盛となると後白河と清盛との軋轢が表面化し、一時、清盛により幽閉されたりするのだが、やがて清盛が亡くなり平家が滅ぶと源氏の棟梁、頼朝とも対峙するのだが、建久3年(1192)、66才で長講堂にて崩御する。
後白河法皇は、まさに政治が朝廷から武士に移り変わろうとする時代を生きた人物だったのである。
法住寺の北、塀に挟まれた小さな道を中に入ると、後白河法皇法住寺陵がある。
法住寺陵には、後白河天皇のほかに、
後伏見天皇(93代)九世皇孫常胤親王/後陽成天皇(107代)皇子堯然親王
後水尾天皇(108代)皇子堯恕親王/靈元天皇 (112代)皇子堯延親王
靈元天皇 (112代)皇子堯恭親王/東山天皇 (113代)皇曾孫眞仁親王
東山天皇 (113代)五世皇孫教仁親王
の七人の親王を祭祀している。


02三十三間堂mid
蓮華王院は、通称三十三間堂とよばれる寺院で、長寛2年(1164)に、平清盛が後白河上皇に寄進したものである。
蓮華王院は「千手観音の仏堂」を意味し、建物は東に面して経っているのだが、これは三十三間堂に安置されている1001体の観音像が、東に向いて法住寺の隣にある後白河法皇陵を見守っているからだという。
三十三間堂は応仁の乱で兵火を免れた建物の一つである。

三十三間堂 ⇒ 三十三間堂の長さは|京の謎解き : 京都より愛をこめて


03法住寺mid
法住寺殿は三十三間堂の東、養源院の隣にある法住寺がその名残で、三十三間堂も法住寺殿の敷地内にあったという。
法住寺の始まりは、平安時代中期の永祚(えいそ)元年(989)に、右大臣藤原為光が、妻と娘の菩提を弔うために建てたもので、当時は広大な寺域を持っていたのだが、火災により荒廃する。
その後、保元3年(1158)に後白河天皇が、この地を御所(法住寺殿)と定め、平清盛に命じ、蓮華王院(三十三間堂)や長講堂を建立する。
しかし平清盛が治承5年(1181)に死去し、源氏の勢力が増大するなか、木曽義仲が京に攻め込むと「法住寺」も兵火にかかる。
その時に上皇の身代わりとなったのが不動明王であり、今では「身代わり不動明王」と呼ばれ、厚く信仰されている。