桂浜から西の海岸を見ると、長い砂浜が続いている。長浜海岸というのだが、自分の子供の頃には、もっと砂浜が広く野暮な堤防などは無く、浜に沿って横浪へと続く道路なども無く、静かに太平洋と向き合える砂浜であった。

01長浜min

長浜の地は高知市の中心部から南に7Kmほど行った所で、土佐藩の参政・吉田東洋が蟄居を命じられた時に、私塾を開いたのがこの長浜の地であった。

吉田東洋は、文化13年(1816)土佐藩上士・吉田家の四男として生まれ、天保13年(1842)船奉行として出仕、13代山内豊熙(とよてる)に仕え藩政改革に取り組んだが、豊熙が若くして亡くなると職を辞している。

しかし後を継いだ弟の豊惇(とよあつ)は、14代藩主として僅か2週間で亡くなってしまうのだが、跡継ぎが決まっておらず土佐藩取り潰しの危機があったのだが、幕府の恩情により、山内豊信(容堂)が15代藩主に着くのである。

豊信によって嘉永6年(1853)再び要職に迎えられた東洋だったが、安政元年(1854)6月に土佐藩江戸屋敷の酒席で、山内家の遠縁・松下嘉兵衛に侮辱され、松下を殴打するという事件を起こし、東洋は参政の職を追われ長浜の地に蟄居させられる。

安政2年(1855)に梶浦から鶴田に移ると、ここで鶴田塾(小林塾)という私塾を開き、青少年の教育に尽力するのである。

小林塾の小林とは、長浜鶴田の塾から西に、歩いてもそう遠くない四国八十八ケ所第三十三番札所の小林山雪蹊寺の山号から取ったもので、南学を主として教え、門下には、後藤象二郎、福岡孝弟、神山佐多衛、岩崎弥太郎、小笠原謙吉らがいる。
その中に、
間崎哲馬(滄浪)がいるのだが、この人物は土佐勤皇党の一人であり、文久2年(1862)4月8日に東洋が、土佐勤皇党の志士に暗殺されるのだが、その時江戸に居た間崎哲馬の心境は如何ばかりだったろうか・・・


02致道館min

高知駅からとさでん交通の路面電車に乗り、はりまや橋で乗り換えて、「いの」「鏡川橋」方面の電車で「グランド通」で降りて、北に6分ほど歩くと吉田東洋が開校した「致道館」跡がある。

参政吉田東洋が16代藩主山内豊範の命により、文久2年(1862)創設。始め文武館と称したが、慶応元年(1865)致道館と改称した。幕末非常事態での藩士の教育機関として、文武両道を厳しく鍛錬すると共に、西洋学術も受容した。

出典 致道館の説明文

それまでの儒学中心の教育を、文武両道を重んじ、西洋式軍備に対応した人材育成を担った。

その致道館の正門が残り当時の姿を留めている。戊辰戦争時、土佐藩兵迅衝隊は致道館に集合、東門から出軍したという

致道館は明治維新を迎え土佐藩が無くなると、昭和51年(1976)に布師田に移転するまで、高知刑務所があったのである。

刑務所移転後に、「高知県立武道館」と「城西公園」が整備され、武道やスポーツの振興の場として活用されている。

正面横の白壁がわずかに刑務所の名残を残している。