弘化2年(1845)11月3日、会津藩砲術師範の山本権八と佐久の間に女の子が生まれる。名を八重という。
八重は、男兄弟のなかで育ってゆき、20才で会津藩士の川崎尚之助と結婚するのだが、慶応4年(1868)に薩長の新政府軍と一戦を交える「戊辰戦争」に巻き込まれ、籠城戦を前に離婚をし、八重は城に籠るのである。
戦いは会津に利あらず負け戦となり、父権八は討死、尚之助は斗南(現在の青森県下北地方)に移住となる。
生き残った八重は、兄の山本覚馬を頼り上洛するのだが、そこで新島襄と出会うこととなる。
新島襄は安中藩(現、群馬県安中市)の江戸藩邸で生まれ、元治元年(1864)に渡米し、明治7年(1874)に帰国後、同志社英学校の設立に奔走する。
この頃に八重と知り合い、明治9年(1876)に結婚し、今の所(寺町丸太町上る)に、二人が住む家を建てている。
この家は、幕末までは御用大工の中井家の屋敷があったが、明治に華族の高松保実の所有となり、新島襄が明治8年(1875)11月29日に、高松邸の半分を借り受けて、生徒8名で同志社英学校を始めることとなる。
ここが同志社発祥の地なのである。
その後、学校は旧薩摩藩邸に移り翌年ここを買い取って、襄と八重が亡くなるまでここに暮らしていたのである。
外観は洋風なのだが、和の趣きに様式を取入れたもので、随所に西洋文化をみることが出来る。室内に台所があり、井戸もその横にあり、食堂は勿論テーブルと椅子、トイレも板張りの腰掛式の様式トイレであり、当時としては洋風を取り入れて、開かれた建物だったようである。
新島襄は八重の考え、立ち居振る舞いからハンサムと讃え、献身的で女らしい半面、主張を曲げない性格をハンサムと例えたのである。
新島襄は、明治23年(1890)46才で亡くなるが、その後、日清・日露の戦争に看護婦として従軍し、幕末から昭和まで4代を生き、昭和7年(1932)、86歳でハンサムな生涯を閉じたのである。
新島邸は、
『新島襄旧邸は、同志社の創立者新島襄の自邸として建設されたもので、明治11年(1878)に竣工したと伝えられる。また、設計は宣教医テーラーの助言のもとに新島自身が行ったといわれている。
建物は木造の2階建てで、北側に平屋部分が付属する。
外観はコロニアルスタイルを基本としているが、細部装飾がほとんどなく、真壁の白い壁面に配された茶褐色の木部が単純明快な美しさを見せている。
また、この建物はいわゆる洋風建築に属するものの、畳敷や箱階段などの伝統的手法も用いられている。
日本人の設計により、日本人のために建てられた明治時代初期の洋風住宅として、さらに新島襄の住宅遺構として貴重である。
同じ敷地内に建つ付属屋と門は旧邸と同時期のものであるが、これらは伝統的な様式で建てられており、旧邸と合わせて住宅の洋風化のあり方を示すものとして注目される。
また、旧邸に残る家具57点はこの建物が住宅として使われていたもので、簡素な屋内意匠とよく調和しており、なかでも国産の洋家具は明治時代初期における家具技術を示す資料としても価値が高い。』
出典:【新島襄旧邸】より




コメント
コメント一覧 (1)
当時としては、随分と斬新な考え方のしっかりした女性だったんですね。
あこがれます。
拍手です。
youhobito
が
しました