平井収二郎のことは既に書いたので、ここでは、その妹・平井加尾について述べることにしよう。

01平井邸min

加尾は天保9年(1838)、龍馬より4年後に生まれている。平井の家は新御小姓組で、小録ながら上士の家柄で、郷士である坂本家よりも身分は上である。

加尾は、和歌もたしなみ才色兼備な娘で、一弦琴を習う龍馬の姉の乙女とも稽古仲間で、家も1Kmほどの距離であり、龍馬とは幼馴染であった。

その後、加尾は安政9年(1859)に、山内容堂の妹、友姫が三条公睦に嫁ぐ時に、それに付き添って上洛し、3年間、友姫のそばで三条家に仕えている。

その間に勤皇の志士たちに便宜を図っているのである。

加尾は龍馬の初恋の相手だということはよく知られているが、文久元年(1861)に龍馬が加尾に次のような手紙を送っている。

『先づ々々、御無事とぞんじ上候。天下の時勢切迫致し候に付、一、高マチ袴、一、ブッサキ羽織、一、宗十郎頭巾、外に細き大小一腰各々一ツ、用意あり度存上候』

内容からすると脱藩するための用意を頼んでいるようだが、脱藩したのは翌年の3月である。加尾は龍馬が脱藩した後、兄・収二郎から「龍馬からの相談には迂闊に乗るな」と咎められている。

文久3年‘1863)6月に平井収二郎の切腹を知ると、姉、乙女への手紙のなかで平井収二郎のことは誠にむごい、妹加尾の嘆きはいかばかりか
一筆取って私の様子など話して聞かせたい、まだ少し加尾の事を気遣いもする。」
と加尾を案じるのである

また文久3年8月に江戸から土佐の乙女に宛てた手紙に、

「・・・此人はおさなというなり。馬にもよくのり、剣もよほど手づよく、長刀も出来、力はなみの男子よりも強く、先、たとへば、うちにむかしをり候ぎんという女の力料斗(ばかり)も御座候べし。顔かたち平井より少しよし・・・」

とここでも千葉佐那を紹介するに加尾を引き合いに出しているのである。

ちなみに、千葉佐那は小太刀の免許皆伝の腕前で、「千葉の鬼小町」とも「小千葉小町」とも呼ばれ、面を脱ぐと周りの人を、はっとさせたと云う。

昨年の龍馬伝では、加尾を広末涼子が、佐那を貫地谷しほりが演じていた


02歴民館min

高知市から車で30分ほど走った南国市に「高知県立歴史民俗資料館」がある。ここは長曾我部氏の居城であった岡豊(おこう)城があった所である。

この資料館に、加尾秘蔵の短刀と坂本龍馬等寄せ書き胴掛が保管されていて、胴掛の左側には、

「あらし山 華にこころの とまるとも 馴れしミ国の 春なわすれそ 八本こ」(京の花に心が留まっても、故郷の春を忘れないで下さい)という加尾が詠んだという歌が書かれ、

右側には、上部に「勿自欺、勿食言。建依別国(たけよりわけのくに)狂士吉村三太書」と墨書され、その下に「天下能為とててんかのためとてものまなびに行人能ゆくひとのかくまで ぬくやかなる どふかけ(胴掛) 誠ニにあわしからず 坂本直陰」と寄せ書きがあり、この二つが縫い合わされているという。

坂本直陰の直陰は龍馬の諱である。後に加尾は土佐勤皇党に居て、明治維新後は、土陽新聞の社長や警視総監にもなった、西山志澄(ゆきずみ)と結婚をする。

明治42年(1909)72才でこの世を去っている。