豊臣秀吉が備中高松城(現在の岡山市北区高松)を水攻めの最中に、織田信長が京の本能寺で明智光秀に討たれたという知らせがもたらされる。
この知らせを受けた秀吉は、すぐさま備中から姫路、摂津、富田までを7日間で駆け戻るという「中国大返し」をし、大山崎の天王山(標高270.4m)に布陣し、光秀と対峙するのである。
光秀もこれを迎え撃つべく山崎に陣を敷くが合戦は秀吉が勝利し、光秀は坂本に逃れる途中、山科の小栗栖で命を落とすのである。
この戦いが天下分け目の戦いであったことから、今では大事な戦いを「天王山」というようになった。
光秀の天下は12日間だったが、光秀は秀吉との戦いに備え、娘の玉(細川ガラシャ)が輿入れしている細川忠興と父藤孝、光秀の四子が養子となっている筒井順慶らに助成を求めていたのだが、細川藤孝は隠居し、忠興は玉を丹後の味土野に幽閉する。
筒井順慶は大和から兵を進めたが「洞ヶ峠」で兵を止め、天王山の戦の趨勢を見計らっていた。
順慶は光秀軍が形成振りと見て、ここから兵を進めることなく、秀吉に見方をしたのである。
このことから後世「日和見の順慶」と言われ、有利な方に付こうとすることを「洞ヶ峠を極め込む」というようになった。
洞ヶ峠は、京都府と大阪府との県境で、八幡市八幡南山と枚方市高野道の境にある峠である。
洞ヶ峠は、枚方バイパス(国道1号線)が昭和41年(1966)に開通するまでは、竹薮に覆われた雑木林だったようで、今ではそんな面影は何処にもなく、ひっきりなしに通る車と店舗で、夜も明るく全く寂しさを感じることはなくなってしまった。
「洞ヶ峠を決めこむ」といえば、日和見といわれるように、この洞ヶ峠にまつわる故事が残る。
洞ヶ峠の茶店にある説明文によれば、
『この峠は、京都府(山城国)と大阪府(河内国)との国境をなし、かつては東高野街道の要衝の地であったため、南北朝時代には男山・荒坂山とともに、たびたび戦乱の舞台となった。
本能寺の変(天正10年=1582)の後、明智光秀と羽柴秀吉が山崎の合戦をした折、光秀に助勢を頼まれた大和郡山の筒井順慶がこの峠まで出陣し、戦況の有利な方に味方しようと観望していた場所として著名である。この故事から日和見することを、「洞ヶ峠を決め込む」ともいう。
しかし実際には、順慶は洞ヶ峠まで出かけるところか、光秀の誘いを蹴り郡山城に籠城していたという。それにもかかわらず、順慶は日和見主義の代表者の汚名を着せられ、一方、そのおかげで洞ヶ峠は天下に知れわたって伝えられている。』
出典:【洞ヶ峠の説明板(枚方市教育委員会)】より
このように筒井順慶は、洞ヶ峠には出兵せず、大和郡山城を一歩も出なかったのだが、その昔は、この洞ヶ峠から淀川対岸の山崎までが一望でき、合戦の様子が手に取るように見えたのではないだろうか。
それが故に、後世さも順慶がここに陣取って合戦の趨勢を望み、どちらに付くかと思案したかのように、「講談師、見てきたような嘘を」面白可笑しく、ついたのであろうか。
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