蹴上は京都市営地下鉄東西線の駅であり、この前の道を抜けると、日ノ岡峠を越えて大津へと続く11Kmの街道である。

01蹴上地蔵mid
蹴上の名の由来は、その昔,牛若丸が金売り吉次と共に、奥州藤原氏のもとに旅立つ際に粟田口を出ここに来た時に、平家の武者が通りかかり馬が泥水を蹴上げたものが牛若にかかり、怒った牛若がこれらの武者を切り捨てたという謂われから「蹴上」と呼ばれるようになったと云う。
その後、牛若はこの行いを恥て9体の仏像を祈願したという。その一つが疎水公園の中に残っている。

02インクラインmid
ここは琵琶湖疏水がひかれた時に、この間だけは高低差が大きく、船をとおす水路をひくことが出来ず、一旦、船を台車に乗せ九条山から南禅寺船溜までを運んだのであり、傾斜鉄道との意味から、インクラインと呼ばれ、この両側に桜の木が植えられて、今では春になると花見の人達で賑わうのである。
『インクラインは、蹴上船溜(ダム)や南禅寺船溜に到着した船から乗り降りすることなく、この坂を船ごと台車に載せて昇降させる目的で建設された。
当初、蹴上から分水した水車動力(20馬力、15KW)によって水車場内のウインチ(巻上機)と水中の滑車を回転、ワイヤーロープでつないだ軌道上の台車を上下する構造を考えていた。
その後、明治21年(1888)、田邊技師、高木文平調査委員が訪米し、アスペン銀鉱山の水力発電を視察した結果、インクライン動力源を水車動力から電力使用に設計変更され、事業用としては我が国初の蹴上発電所を建設することになった。
この電力が世界最長のインクラインに35馬力(25KW)、時計会社に1馬力(0.75KW)などの産業用、電灯用として活用された。
明治27年(1894)には伏見区堀詰町までの延長約20Kmの運河が完成し、この舟運により琵琶湖と淀川が疎水を通じて結ばれ、北陸や近江、あるいは大阪からの人々や物資往来で大層にぎわい、明治44年(1911)には渡航客約13万人を記録した。
しかしながら、時代の流れで大正4年(1915)には、京津電車、京阪電車が開通旅客数が3万人台に激減したのに加え、国鉄(JR)の方でも東山トンネルが開通して大正10年(1921)に現在の山科駅が開設されたため、京津間の足としての疎水の機能は実質的に失われることとなった。
一方、貨物の輸送量は、大正14年(1925)には、史上最高の22万3千トン、1日約150隻を記録した。
やがて、陸送化がどんどん進み昭和26年(1951)9月、砂を積んだ30石船が最後に下り、疎水舟運60年の任務を終えた。
こうして、琵琶湖疎水・インクラインは文明開化以降における画期的な京都再生の役割を果たした。
平成8年(1996)6月には、国の史跡指定を受け、今日の京都を築いた遺産として後世に永く伝えるため形態保存している。
概要
着工:明治20年(1887)5月/竣工:明治23年(1890)1月
運転開始:明治24年(1891)11月(蹴上発電所営業運転開始)
幅:約22m/勾配:15分ノ1/所要時間:10~15分
電動機:直流440V、70A/ドラム工場:南禅寺船溜北側(白い建物)』

03疎水(1)mid
琵琶湖疏水は、
『大津から京都を結ぶ東海道の難所であった逢坂山や日ノ岡の峠道は、旅人や貨物運搬にとって悩みの種で琵琶湖から水を引き、その水路を利用して舟運を興すとともに、田畑を潤すことが古くは平清盛、豊臣秀吉の時代からの願望として伝承されてきた。
明治2年(1869)に東京へ都が移り、産業も人口も急激に衰退していく京都にあって、第3代京都府知事の北垣国道は、京都に近く水量豊かな琵琶湖に着目し、疏水を開削することにより、琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き、同時に水力、灌漑、防火などに利用して京都の産業振興を図ろうとした。
この疏水工事の御用掛に選ばれたのが、明治16年工部大学校を卒業したばかりの田邊朔朗で、およそ4年にわたる政府、水源滋賀県、下流大阪府等関係先との折衝を経て、田邊朔郎技師、嶋田道生測量士ら技術陣・行政関係者、上・下京連合区会、市民とともに京都発展を考えて、不退転の決意のもとで、明治18年(1885)8月に着工した。
工事は、工事区間の中でも当時の我が国の土木技術では、極めて困難とさえ言われた大津山科間の第1隧道(トンネル:延長2,436m)から取りかかることになり、硬岩と湧水との闘いの中での大変な難工事となった。
施工方法についても東西両口からの掘削の他、わが国初の試みとして途中に竪坑方式も採用された。
疏水工事は明治初期の土木技術の最先端をいくものばかりで、沿線の人々は驚異の目で工事を見守った。』

04疎水(2)mid
『疏水工事は、明治18年6月に着工して以来、4年8ヶ月後の明治23年(1890)4月、就労者数400万人、125万有余円という莫大な費用をかけて、大津の琵琶湖取水地点から鴨川落合まで11.1Kmの疏水が完成した。
それより以南は明治25年11月に着工し、明治27年(1894)9月には伏見区堀詰町までの延長約20Kmが開通し、北陸、近江から大阪に至る物資と旅客の舟運ルートが完成した。
琵琶湖疏水は、当時我が国の重大な工事はすべて外国人技師の設計監督に委ねていた時代にあって、日本人のみの手によって行った最初の近代的大土木事業であり、明治期における日本の土木技術水準の到達点を示す近代遺産として、平成8年6月に、インクラインをはじめ12箇所が国の史跡に指定されている。
この疏水の水は、現在においても水道用水の他、発電、防火、工業など多目的に利用されており、京都市民の生活を支える重要な役割を担っている。
やがて、明治45年(1912)には京都市三大事業と称された「第2疏水の建設」「蹴上浄水場創設による給水」「道路拡築と市電軌道敷設」が完成し、今日の京都の都市基盤がほぼできあがった。』

『 』内は、【インクライン(傾斜鉄道)】【史跡 琵琶湖疏水】【いのちの水 琵琶湖疏水】より

05水路閣mid
南禅寺の境内を通る水路閣は、
『疏水事業は、京都府知事北垣国道の発意により、田邊朔郎工学博士を工事担当者として、明治18年に起工され、同23年に竣工した。
水路閣は、この疏水事業の一環として施工された水路橋で、延長93.17メートル、幅4.06メートル、水路幅2.42メートル、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つとなっている。
また、ここから西500メートルにあるインクラインは、高低差のある蹴上の舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下2本のレールを敷き、艇架台により舟を運ぶ施設で、当時の舟運による交通事情がよくうかがえる。
いずれも、西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計、施工されたもので、土木技術史上、極めて貴重なものであり、昭和58年7月1日に「疏水運河のうち水路閣及びインクライン」として京都市指定史跡に指定された。
また、平成8年6月には、この水路閣、インクラインに加え、第1疏水の第1・第2・第3隧道の各出入口、第1竪坑、第2竪坑、明治36年に架設された日本初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡第11号橋)、同37年架設の山ノ谷橋などが日本を代表する近代化遺産として国の史跡に指定された。』
                  出典:【史跡琵琶湖疏水のうち「水路閣」】より