川向うの女「多佳女」とは、どういう女性なのだろうか。
それには文豪、夏目漱石が深く関わっているのだが・・・
徳川幕府が崩壊し混乱の続くなかで生まれたのが夏目漱石で、慶応3年1月5日(1867年2月9日)江戸牛込馬場下で生まれ、明治、大正を生きた大文豪である。
夏目漱石といえば誰でも思い出すのが「坊ちゃん」「吾輩は猫である」で、他にも「三四郎」「こころ」「草枕」などがあるのだが・・・
余計な話だが、読んだことはあるのに何故か今本棚のなかに漱石の本は一冊もないのである。
漱石は京都に四度訪れている。
最初は明治25年(1892)7月、正岡子規とともに京都を訪れ、子規の数多くのペンネームから「漱石」の名を譲り受けたという。、
二度目は明治40年(1907)の春、東京帝大の教授を辞め、朝日新聞に入社し「虞美人草」を連載するために、都をどりを見て、祇園「一力」で遊興の時をすごしている。
三度目は明治42年(1909)の秋、中国東北部への旅の帰路、
四度目は大正4年(1915)亡くなる1年前で、随筆「硝子戸の中」を書き上げた直後で、この時に、木屋町御池の旅館「北大嘉」に宿泊し、祇園の茶屋「大友」の女将・磯田多佳と交友をもち、二人の間に琴線が触れるものがあり、漱石はこの御池の宿から鴨川を隔てた祇園の多佳さんを思い「春の川を 隔てて 男女哉」の句を詠んだという。
御池大橋のそばの駒札には、
『木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに、「春の川を 隔てゝ 男女哉」 漱石
句碑は昭和41年(1966)11月、「漱石会」が明治の文豪夏目漱石(1867~1916)の生誕百年を記念して、句にゆかりの現地に建てた。
漱石は、生涯、四度にわたって京都を訪れた。
最初は明治25年(1892)7月、友人で俳人の正岡子規とともに。
二度目は明治40年(1907)春、入社した朝日新聞に「虞美人草」を連載するためで、
三度目は二年後の秋、中国東北部への旅の帰路であり、四度目は大正4年(1915)春、随筆「硝子戸の中」を書き上げた直後であった。
このとき、漱石は、画家津田青楓(せいふう)のすすめで木屋町御池の旅館「北大嘉(きやのたいが)」に宿泊。
祇園の茶屋「大友(だいとも)」の女将磯田多佳女と交友を持つが、ある日、二人の間に小さな行き違いが起こる。
漱石は、木屋町の宿から鴨川をへだてた祇園の多佳女を遠く思いながら発句を送った。句碑にある句である。
この銘板は、平成19年(2007)10月、京都での漱石を顕彰する「京都漱石の會」(代表・丹治伊津子)が発足したのを機に建てた。』
出典:【夏目漱石の句碑 駒札】より
春は桜、夏は青葉、秋は紅葉、冬は雪と四季折々に姿を変える「白川南通」、その横を白川が「枕の下を水の流るる」の如く流れていく。
大和橋から東に向う石畳の道が「白川南通」である。
お多佳さんの茶屋は祇園白川のほとりにあったといい、今はその場所に、祇園をこよなく愛した、大正・昭和の歌人である吉井勇の「かにかくに」の歌碑が建っている。
吉井勇は明治19年(1886)に東京で生まれた歌人で、祇園をこよなく愛し、この歌碑が建っている辺りにあった茶屋「大友」でよく遊んだといわれる。
吉井勇が古希を迎えた、昭和30年(1955)に「かにかくに・・・」の石碑が有志により建てられ、毎年、祇園甲部の芸舞妓によって、この歌碑に白菊を手向けて勇を偲ぶ『かにかくに祭』が行われている。
また一時期、高知県香美郡香北町に住んだことがあり、高知ともまた縁がある人なのである。
吉井勇は、昭和35年(1960)に亡くなるのだが、祇園の馴染みの芸妓が「なんで菊の花になっておしまいやしたんえ」と嘆いたという。
駒札によると
『かにかくに 祇園はこひし 寐(ぬ)るときも 枕のしたを 水のながるる
この歌は,祇園をこよなく愛した歌人として知られる吉井勇(1886~1960)が明治43年(1910)に詠んだ一首で,彼の歌集「酒ほがひ」に収められている。
当時は白川の両岸に茶屋が建ち並び,建物の奥の一間は川の上に少々突き出ており,「枕のしたを 水のながるる」はその情景を詠んでいる。
しかし,第二次世界大戦下の昭和20年(1945)3月,空爆の疎開対策に白川北側の家々は強制撤去され,歌碑が建っているこの地にあった茶屋「大友(だいとも)」も犠牲になった。大友は当時の文人,画人たちと幅広く交流のあった磯田多佳の茶屋である。
昭和30年11月8日,友人たちにより吉井勇の古稀(七十歳)の祝いとして,ここに歌碑が建立された。
発起人には,四世井上八千代、大谷竹次郎、大佛(おさらぎ)次郎、久保田万太郎、里見敦(とん)、志賀直哉、新村 出(いずる)、杉浦治郎右衛門、高橋誠一郎、髙山義三、谷崎潤一郎、堂本印象、中島勝蔵、西山翠嶂(すいしょう)、湯川秀樹、和田三造などそうそうたるメンバーが顔をつらねた。以来,毎年十一月八日には吉井勇を偲んで,「かにかくに祭」が祇園甲部の行事として行なわれている。』
出典:【かにかくに碑の駒札】より
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