四条大橋を東に渡ると、左側に出雲阿国の像が立っている。
阿国は元亀3年(1572)に出雲国に生まれ、出雲大社の巫女となり、勧進のために諸国を巡り「ねんぶつ踊り」や「ややこ踊り」を踊ったという。
出雲阿国は安土桃山時代の芸人で、慶長8年(1603)に鴨川の河原にて、「ねんぶつ踊り」や「ややこ踊り」を基にして、「かぶき踊」を創作したと言われ、これが基となり現代の「歌舞伎」が出来たのだと言われている。
阿国の「かぶき踊り」は、名古屋山三郎役の男装した阿国と女装した男性とが微妙に絡み合うというものであった。
その後、阿国の「かぶき踊り」は遊里で踊られ、男装した遊女と遊女の掛け合いが公序良俗に反するとして、江戸幕府により取り締まりの対象となるのだが、宮川町などで「少年歌舞伎」など、男色の踊りとして残り、女役を男が演じることで、今の世に生き残ったのである。
阿国の「かぶき踊り」は、内容を変化させながら江戸時代へと続いてゆくのだが、四条大橋の辺りには芝居小屋が出来るのである。
江戸時代初期の元和年間(1615~24)四条通を挟んで、幕府公認の芝居小屋が七座あった。
(四条通り橋詰めから大和大路までの南に三座、北側に二座、大和大路の西側に二座)
しかし七座あった芝居小屋(櫓)は、幾度となく焼失を繰り返し、江戸時代中期の宝暦・明和年間(1751~72)には四条通の南(南座)と北(北座)、大和大路の西(西座)の三座となってしまう。
さらに寛政6年(1794)には、西座が焼失し、南座と北座を残すのみとなってしまうのである。
明治25年(1892)に、四条通に電車を通すために道路が拡張にともなって、北座は廃業し、南座だけが今に残るのである。
北座の跡には石碑が建つのだが、
『寛文10年(1670)以降、鴨川の西岸に新堤が築かれたことによって、鴨河原の風景は一変した。
河原は「新地」(新造成地の意味)となり、ここに広大な芝居街と茶屋町が出現することになった。
延宝4年(1676)の絵図(祇園社並旅所之図)によれば、この時期すでに東岸の四条通をはさんで、計6軒の芝居小屋が描かれている。
17世紀末の元禄期になると、この芝居小屋は7軒に増加する。18世紀初頭の「京都御役所向大概覚書」によると、四条北側芝居は、井筒屋助之丞、両替屋伝左衛門の所有とあり、さらに南側芝居は、大和屋利兵衛、越後屋新四郎、伊勢屋嘉兵衛の三者が所有者としてあげられていた。
しかし、たびたびの大火で19世紀末には、わずか北側に一軒、南側に一軒となった。その北側の一軒「北座」も、明治26年(1894)四条通拡幅によって消滅した。』
出典:【北座跡(この付近)の駒札】より
四条大橋の東詰南側に「南座」がある。
現在の南座は昭和4年(1929)に建てられたもので、破風造りの桃山建築を思わせる豪華な建物で、正式には、「京都四条南座」と言い、江戸時代から続く、日本最古の劇場である。
鴨川に面した通りに南座の楽屋口があり、その横に「阿国歌舞伎発祥地」の石碑が建っている。
駒札には、
『慶長8年(1603)この辺り鴨河原において歌舞伎の始祖出雲の阿国が初めてかぶきをどりを披露しました。
この碑は昭和28年11月吉例顔見世興行を前に歌舞伎発祥三百五十年を記念して、松竹株式会社により建設されたものであります。我が国が世界に誇る文化財歌舞伎を日本の至宝として末永く後世に伝えたいという願いが込められております。
碑の文字は、元日本芸術院長・高橋誠一郎氏の筆によります。』
出典:【阿国歌舞伎発祥地の碑の駒札】より
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