JR土讃線の「旭駅」から高知駅の方に、線路に沿って4分ほど歩くと、踏切のそばに「平井収二郎先生誕生地」の石碑が建っている。
そばの碑文には、
『幕末の志士。号を隈山(わいざん)といい、天保6年(1835)この地で生まれた。
早くより文武を志し、英邁闊達で戦国策士の風があったという。
文久元年(1861)に武市瑞山の土佐勤皇党に加盟する。翌年、藩主山内豊範に従って上洛し他藩応援役として活躍したが、その後山内容堂が赦免されて、藩政を掌握することに先手を打ち、藩政改革を企てた。このことが容堂の怒りにふれ、同志の間崎滄浪、広瀬健太とともに切腹を命じられた。
獄中での爪書きの辞世「嗚呼悲しき哉」は藩使に削りとられたが、維新後、妹の加尾によって復刻された。享年29歳。墓は右手、丹中山の東麓にある。』
出典 平井収二郎の碑文

平井収二郎の墓は平井邸跡から東に6分ほどの丹山中で、坂本家の墓地の裏側に背をくっつけてある。
収二郎は天保6年(1835)7月14日、土佐藩新留守居組の上士の子として生まれている。
収二郎は、龍馬と同じ年に生まれ、龍馬とも親交が深く、妹の加尾は龍馬の初恋の人だと言われている。
収二郎は幼少より聡明な子で、長じて武市半平太が勤皇党を結成すると、157番目に血判を印しているが、これは名を記したのがこの順であり、武市が勤皇党を立ち上げた当初から加わっていたことは、想像に難くない。手続きはどうでもよかったのである。
文久2年、藩主、山内豊範の参勤交代について土佐を出、上洛した後は、他藩の勤皇の志士と交わりを深めている。
その後、青蓮院宮令旨事件に関わったことにより、文久3年6月に、間崎滄浪や弘瀬健太と共に、その罪を問われ山内容堂から切腹の命を受け、28才の命を散らしている。
収二郎が獄中にて、爪で書き残した辞世の歌が今に残っており、
『嗚呼悲哉、兮綱常不張 洋夷陸梁兮、辺城無防 狼臣強倔兮、憂在蕭牆 憂世患國兮忠臣先傷 月諸日居兮奈我神皇』
と詠まれたものを、妹の加尾が墓碑に刻むも削りとられて、その後ここに、加尾の曾孫が辞世を刻んだ碑をここに建てたとある。
『嗚呼(あゝ)悲しき哉(かな)、綱常(こうじょう)張らず/洋夷(ようい)陸梁(りくりょう)して、辺城(へんじょう)に防ぎ無し/狼臣(ろうしん)強倔(きょうくつ)にして、憂は蕭牆(しょうしゃ)に在り/世を憂い國を患うて、忠臣(ちゅうしん)先(まづ)傷む/月や日や、我が神皇(じんのう)を奈(いかん)せん』
と忠臣愛国の情を切々と謳いあげているのである。
『ああ悲しいことに、人のとるべき道が行われていない/西洋の夷人がやりたい放題をし、日本はこれを咎めえない/狼のように無慈悲で兇悪な家来は強情で、憂いの原因は、土佐藩の内にある/世の中や国家のことを思えば、先に立って忠節を尽くす臣下が先に傷つく/月よ、日よ、我が万世一系の天皇をどうしようというのか』と意訳する。
平井や間崎、弘瀬そして武市と土佐勤皇党の主だった人物を切り捨てた土佐藩は、長州藩のように徳川幕府に対し恨みが底流にあったのではなく、徳川に対しては恩義があり、勤皇と佐幕の間でゆれ動いていたのである。
山内容堂が酒を飲めば勤皇で、酔いが醒めれば佐幕といわれたように、土佐藩は右に左に揺れ動いていたのである。
山内容堂の失態は、土佐勤皇党の主だったものを切腹させたことで、明治維新後に土佐藩の国政における地位を著しく低くしてしまったのである。
そのことを後に、容堂は酒を飲む度に、武市を切腹させたのは一生の不覚と涙を流したという。

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