桂小五郎のちの木戸孝允は、明治維新を主導した人物たちの中で、逃げの小五郎と陰口をたたかれながらも、暗殺や兵禍にも遭わず唯一、畳の上で亡くなった人物である。
その陰には追われる小五郎を守り通した幾松の献身的な姿があったのである。
随分と名を変えたようであるが、幕末の桂小五郎は、逃げの小五郎と云われ、幾度か命の危機に巡りあったのだが、何れも、その危機を察知していち早く、その場から逃げ伸びて、明治維新を向かえている。
その最たるものが、池田屋の変で、一度は池田屋に足を運ぶのだが、時が早く三条上る恵比須町の対馬藩邸に立ち寄っていたところで、新選組が池田屋に踏み込み、小五郎は難を逃れている。
というのが通説なのだが、実は池田屋の変では、近藤勇が踏み込んだ際には、いち早く池田屋から逃げたという説もあるほどに、逃げるのが早かった小五郎である。
この人の維新における功績は色々と語り継がれているが、三本松の難波屋の芸妓、幾松(小沢松子)と相思相愛となり、幾度か幾松の機転に助けられたという。
料亭「幾松」は長州藩の控え屋敷として建てられたもので、桂小五郎が幾松と共に住んでいた跡である。
幾松はなかなかの美人だったようで、桂が一目惚れしたという。
当時の幾松は、山科の太夫が贔屓にされており、桂はこれと張り合うことになるのだが、最後は伊藤博文が刀で脅して桂のものになったという。
それより、桂が逃げ回る最も困難な時代を幾松は献身的に桂を支えるのである。
木屋町通御池上るに「幾松」があり、幕末当時には、不意の敵に備え天井に大石が、また部屋から鴨川の河原に出られる抜け穴があったという。
幾松は木戸松子としてその生涯を幸福に暮らしたのに比べ、坂本龍馬のお龍さんは、龍馬が暗殺されたことで生活は一変し、不遇な生涯を過ごすことになったのであるが、人の人生とは紙一重で幸と不幸がおそってくるのであろう。
木戸松子(幾松)は、木戸孝允の死後、出家して翠香院として木戸の菩提を弔い、明治19年(1886)に京都木屋町で病没する。享年44才であった。
残念ながら、料理旅館「幾松」は令和2年(2020)10月20日をもって閉店となった。
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