桂小五郎のちの木戸孝允は長州藩士で、明治と年号が変わるまで生きた人物である。

01ホテルオークラmid
河原町通を御池までくると、通りを越した右側に「京都ホテルオークラ」が見えてくる。この場所が、長門国萩藩毛利氏の京都藩邸(長州屋敷跡)が在った処である。
長州藩は戦国時代、毛利元就のときに中国、山陰地方を併せ持つ大大名となる。
後に、毛利輝元が豊臣秀吉に仕え、120万石という石高を受領している。
ところが、関ヶ原の合戦では西軍の総大将に担ぎ出され、大坂城に入るものの西軍が大敗。
関ヶ原で一門の小早川秀秋裏切りや吉川広家の内通など家康側に貢献し、家康に敵意はなく所領安堵の約束があったにもかかわらず・・・
関ヶ原の責任を問われ、周防(山口県の南半分)と長門(山口県の西半分)の二国に押し込められ、石高も36万9千石となっている。
居城地も日本海側の萩ちするよう命じられ、以来倒幕を暗黙の国是とし、時を経て倒幕の道を歩み、明治維新を迎えることとなる。

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桂小五郎は天保4年(1833)6月に長州藩藩医の子に生まれている。
16才の時に、吉田松陰の門弟となり、3年後に江戸に留学をし斎藤弥九郎に剣術を学び、神道無念流の免許皆伝を受ける。
嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来航した衝撃を受け、長州藩の改革に取り組み、西洋式の軍制を推し進める。
文久2年(1862)29才頃から久坂玄瑞や真木和泉らと共に尊王攘夷活動を始め、他藩との折衝や公卿との応接に当たるが、文久3年(1863)8月18日の政変で、長州藩と尊王攘夷派の公家が京を追われるが、桂は名を変えて京に留まるのである。
元治元年(1864)6月の池田屋騒動では、難を逃れている。
同年7月に禁門の変(蛤御門の変)が起こり、その後、但馬出石に潜伏をする。
第一次長州征伐が行なわれ、慶応2年(1866)薩長同盟が結ばれ、討幕が加速され、慶応3年(1867)10月に大政奉還がなされる。
慶応4年(1867)1月、鳥羽伏見で薩長と徳川幕府で戦端が開かれ、1年半に及ぶ戊辰戦争となる。
明治を迎え政府の中枢を担い、制度改革を推し進めるのだが、明治10年(1877)西南戦争の最中に、京の邸宅にて病没する。享年45才であった。