JR高知駅から電車の走る道を南に、高知橋を左に折れ、高知八幡宮が川向こうに見えると、右手前方に山田橋が見えてくる。

01山田橋mid
山田橋は車道も狭くコンクリートの古い欄干の橋だが、歩行者用に、すぐ横にも橋が架かっているのだが、この橋も鉄製で欄干は錆が浮いている。
山田橋番所の説明書きには、
『山田橋は、城下町の北東部に位置し、城下町の外周を流れる江ノ口川に架かる橋です。ここは北山越え、甲浦経由の街道筋の起点にあたり、橋の南詰めの広場には城下三番所の一つ、山田橋番所が置かれました。また、このあたりは、長宗我部元親が城下町を建設しようとした時に、現代の土佐山田町の住人たちがが移り住んだ場所でもあり、その地名をとって山田町と名付けられました。
番所のあったあたりは広場になっており、西の升形に対して山田町升形と呼ばれていました。近くには弓方の弓場もありました。
江ノ口川の少し下流には藩政時代に横堀と呼ばれていた新堀川への分岐点があります。ここに架けられた橋は刎橋(はねばし)といい、新堀川の川底に底井流、今で言う水道管があったため橋脚を据えられず、川の両岸から大木を刎ね出して架けたことから、この名前がつきました。
藩政時代初め、付近の住人たちがお金を出し合って開いた新堀沿い(現在の新堀小学校付近)には、木材が物部川水系などから浦戸湾を経由して集められ、木材商売の特権を認められた上人たちが集中して住んでいました。山田橋から江ノ口川下流の一文橋にかけては、筏に組まれた木材でいっぱいでした。
このようにこの辺り一帯は木材、引いては山とは切っても切れない関係にあったことがわかります。そのため、新堀沿いには山の神様である大山祇神社が祀られました。神社は、戦後新堀川沿いに移され、現在でも地元の方々によって大切にされています。』
                       出典:【山田橋番所の説明書き】より

02山田橋番所跡mid
この山田橋の南詰めの東側に、土佐藩の獄舎があり、西側に城下三番所の一つである、山田橋番所が置かれていたのである。
番所を置くほどに重要だった街道筋だったが、今ではそんな縁(よすが)も思えない程に静かな場所となっている。
それよりも、この場所で土佐勤皇党の弘瀬健太、平井収二郎、間崎哲馬、岡田以蔵らが投獄され、切腹・斬首された所として知られている。
ちなみに岡田以蔵の生まれた所は、ここから北西にすぐの所である。

03薫的神社mid
山田橋にあった獄舎は、JR土讃線で高知駅から西に1駅の「入明」で降り、東に歩いて5分の高知市洞ケ島町にある薫的神社の境内に残っている。
獄舎が何故この神社にあるのかは、牢横の説明書きによると
『くんてき様がこの御牢で冤罪のために七年間御苦労されたと言われます。
今より三百十四年前、寛文十一年旧正月十日の明方、両手の親指をかみ切り、白無垢の小袖を引きちぎり、血を以て辞世を書かれ、その上御自ら舌をかみ切って、西の方、高知城をはったと睨み両眼を見開いた儘、坐禅を組んで御昇天されました。享年四十七歳、伝説に依れば、七日七晩大暴風になったそうです。
此の建物は現在、はりまや町三丁目、旧山田町の牢ノ町にありましたが、明治初年、今の小津高校付近に移転、明治十七年高知城の西の刑務所に再移転。
この高知刑務所は昭和51年10月12日に高知市布師田に移転したので、現在城西公園となっています。
大東亜戦争中には、まだ実際に政治犯を収容していたもので、昭和25年11月27日に、当、薫的神社へ払下げを受け、大神様の当時の御辛苦を偲び奉り、信者の方々の修行道場として保存することになった建物です。』
                   出典:【薫的様御昇天の御牢の説明書き】より

04山田橋牢獄mid
薫的和尚は土佐山内家の初期の頃の人物で、今ここに残る牢獄は、間崎滄浪、平井収二郎、弘瀬健太らが投獄され、村田忠三郎、久松喜代馬、岡本次郎らなどもここに繋がれていたのである。
岡田以蔵もまた、この獄舎に繋がれ拷問を受けている。この頃には、土佐勤皇党は吉田東洋や京での暗殺容疑で、首領の武市瑞山を始めとし、多くの党員が捕らえられている。
人斬りと呼ばれた以蔵も連日拷問を受け、武市が「以蔵は誠に日本一の泣きみそであると思う」と言ったように、女でも耐えれるような拷問にも泣き喚き、一連の暗殺に関わった同志の名を白状するのである。
獄舎に投獄されて1年余の慶応元年(1865)打ち首となる。享年28才であった。
時世の句は「君が為め 尽す心は水の泡 消にし後は 澄み渡る空」で、墓所は高知市薊野(あぞうの)真宗寺山にある。
拷問を受けその血と涙が染込んだであろう山田橋獄舎は、内を窺うことも出来ないが、志し半ばにして亡くなった勤皇の志士達の悲痛な叫び声が聞こえてきそうである。