岡田以蔵は幕末の土佐藩郷士で、人斬り以蔵の異名で知られた人物である。

01高知城mid
岡田以蔵は、天保9年(1838)土佐の香美郡岩村(現、高知県南国市)の郷士の家に生まれる。
嘉永元年(1848)に高知城下の七軒町(現、高知市相生町)に移り住む。
武市瑞山に師事し、小野派一刀流を学び、瑞山と共に江戸に出て、鏡心明智流に入門する。
万延元年(1860)瑞山に従い、中国・九州へとおもむき豊後岡藩にて直指流の剣術を学んでいる。
土佐に戻ると武市が立ち上げた土佐勤皇党に入り、王政復古に尽力するが、その一方で武市の指示を受け、天誅と称して暗殺に手を染めるのである。

02木屋町mid
文久2年8月に、平井修二郎ら勤王党同志と共に、大坂心斎橋の上で、土佐藩下目付の井上佐市郎を暗殺。それが以蔵が暗殺に関わった最初の事件である。
また三条木屋町下るで、平井修二郎・弘瀬建太ら勤王党同志7人で、越後出身の本間清一郎を惨殺する。
この暗殺には薩摩の田中新兵衛も加わっている。
安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した、目明し猿(ましら)の文吉や村山たかの子、多田帯刀などを暗殺する。猿の文吉を三条河原に晒したときの捨札に「いぬ」と書かれていたことから、権力者の手先を「〇〇の犬」と呼ぶようになったと言う。

03山田橋mid
以蔵は文久3年(1863)1月に脱藩をし、江戸に向かい長州の高杉晋作のもとに身を寄せるが、高杉が京に赴くとこれに同行し京に戻っている。
この頃より酒色に溺れるようになり、同志とも疎遠になり身を持ち崩してゆく。
これを見かねた龍馬は、勝海舟の護衛に付けるが、その性根は変わらず、龍馬にも見放され無宿者にまで成り下がるのである。
元治元年(1864)に商家への脅迫罪で捕まり、京都を追放されると同時に、土佐藩吏に捕縛され、土佐に移送され山田町獄舎に投獄される。