幕末という動乱期に人斬りと呼ばれた四人の人物がいる。
田中新兵衛(たなか しんべえ;天保3年(1832)~文久3年(1863))
出自は武士ではなく、薩摩前ノ浜の船頭の子である。
示現流を使い、一の太刀で勝負をつける先手必勝の太刀使いであった。
文久2年(1862)に島田正吾を暗殺するのだが、こらが今後続発する天誅の始めとなる。その後に、御所の朔平門外で公家・姉小路公知の暗殺容疑で捕縛され、取り調べの最中に突如自刃して果てるのである。
河上彦斎(かわかみ げんさい:天保5年(1834)~明治4年(1872))
肥後藩の下級藩士の家に生まれ、16才で茶坊主となる。
兵学を学んだ宮部鼎三(みやべていぞう)に傾倒し、尊王攘夷にのめり込んでゆく。
伯耆流居合術を修行し、その斬口から彦斎だと分かる位に、逆袈裟斬りの達人であった。
元治元年(1864)に、西洋の鞍を使って馬に乗っていたという、たあいもない理由で、木屋町で佐久間象山を惨殺している。
明治になり、二卿事件や広沢真臣暗殺の容疑を受け、日本橋伝馬町で斬首されている。
中村半次郎(なかむら はんじろう:天保9年(1839)~明治10年(1877))
薩摩藩城下士の家に生まれる。小松帯刀や西郷隆盛らに重用され、寺田屋騒動で坂本龍馬が薩摩屋敷で静養した時は、毎日のように龍馬を見舞っている。
公家や長州とも関わりが深く、人斬りの印象はないが、慶応3年(1867)軍学者の赤松小三郎を暗殺している。
薬丸自顕流を使い、気性の激しさから人斬りと見られるが、明治維新後に名を桐野利秋と改め、陸軍少将まで登りつめる。
西南戦争で西郷隆盛の最期を見届け、政府軍と対峙するも、額に銃弾を受け戦死する。
岡田以蔵(おかだ いぞう:天保9年(1838)~慶応元年(1865))
土佐藩の郷士で、この男こそ人斬りの異名がぴったりだが、この人物については項を改めて紹介をしよう。
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