三条通の高瀬川に架かる三条小橋から、木屋町通を北へ一丁(109m)ほど行った所、木屋町御池上ルに佐久間象山遭難之碑が建立されていると書いたが、その同じ場所に「大村益次郎卿遭難之碑」が建てられている。
大村益次郎は京都木屋町三条上るの旅館で教え子と会食中に刺客に襲われ深手を負い、2ケ月後に亡くなっている。
明治2年(1869)11月5日のことである。

01寓居mid
大村益次郎は長州の人で明治維新に活躍した、日本陸軍の創始者とされている。明治2年9月4日に三条木屋町上るの旅館で刺客に襲われ重傷を負い、同年11月5日に46才で亡くなっている。木屋町御池上るにある料亭「さつき」ここはもと長州藩の控え屋敷で、維新の後は大村益次郎が常宿として使用していたところである。

02石碑mid
大村益次郎卿遭難之碑の昭和9年の碑文には、
『大村兵部大輔諱永敏通称蔵六、後改益次郎。周防国吉敷郡鋳銭司村人文政七年三月十日生。
壮而博究東西諸邦兵書、安政三年任幕府講武所教授、文久元年転毛利藩兵学教授。
慶応二年毛利藩与幕府開釁隙(きんげき:不和、仲たがい)、大輔率藩兵連戦皆捷驍、名大振。
明治元年官軍戦於奥羽函館参帷幄(いあく:参謀、作戦計画)奏偉功。
二年任兵部大輔陸海軍制及国民徴兵之制竝定之基礎。
八月入京都寓木屋町籌将設立兵学寮、及機器局。
 九月四日夜、為刺客所襲創甚十一月五日隊薨。
年四十七十三日、朝廷録其功、特旨贈従三位大正八年追陞 従二位』
                    出典:【大村益次郎卿遭難之碑の碑文】より
碑文を意訳すると、
「大村兵部大輔は、諱(いみな:実名の敬称)を永敏、通称を蔵六、後に益次郎と改める。周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじむら:現在の山口県山口市の南東部)で文政七年(1825)三月十日に生まれる。
長じて東西諸邦の兵書(あらゆる兵学書)を深く読み、安政三年(1856)に幕府講武所の教授に任じられ、文久元年(1861)に毛利藩兵学の教授となる。
慶応二年(1866)毛利藩(長州藩)は幕府と戦いを開き、大輔(大村益次郎)は藩兵(長州藩兵)を率いて連戦連勝し、その名は大いに知られることになった。
明治元年(1868)、官軍が奥羽・函館で戦うと作戦計画をたて功績をあげる。
明治二年(1869)に兵部大輔に任じられ、陸海軍制及び国民徴兵制度の基礎を定めた。
八月に入京、木屋町に寓居を構え兵学寮及機器局の設立計画を練っていた。
九月四日の夜に、刺客に襲われ傷深く十一月五日に亡くなる。
齢四十七年十三日、朝廷から其功により、従三位が授けられ、大正八年(1919)に従二位が追贈された。」