余談となるのだが、安政の大獄で斬首された志士は数多いが、その一人をここで取り上げる。
その名は、橋本左内、福井藩の藩医だった人物で、時の藩主・松平春嶽を助け、一橋慶喜の擁立や幕政改革を唱えたが、井伊直弼の安政の大獄で捕らえられ、伝馬町牢屋敷で斬首されるのである。
安政6年(1859)6月7日のことである。

01福井藩邸跡mid
油小路二条下ル西側に福井藩邸跡がある。二条城の向かい、堀河通を挟んで京都国際ホテルのある辺りが、松平春嶽の福井藩の京都藩邸が在った所である。
駒札によると、
『この油小路二条下る西側(現京都国際ホテル)の一帯には、江戸時代後期、福井藩の藩邸があった。
藩邸が置かれたのは比較的新しく、天保2年(1831)の「京大絵図」に描かれている。
藩邸は藩の京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当たった所である。
福井藩は、慶長5年(1600)、徳川家康の二男結城秀康(ゆうきひでやす)が封ぜられたのに始まる親藩の雄藩で、石高は最大68万石、江戸中期以後は32万石。幕末に松平慶永(まつだいらよしなが)が藩主となってから、人材を登用して藩政を改革し、水戸藩とともに幕府政治の改革に乗り出し、更に、公武合体運動を進めて、幕末政局に一方の旗頭となって活躍した。
この藩邸は、幕末の福井藩の活躍にとって大きな役割を果たした。』
                     出典:【此付近福井藩邸跡の駒札】より

02左内寓居跡mid
龍馬とともに佐久間象山の塾で学んだ、福井藩士の橋本左内も、安政5年(1858)2月から4月まで、この福井藩邸に居住して、活躍をしたのである。
駒札によると
『橋本左内は福井藩士で幕末の志士、安政5年(1858)2月から4月まで、この地にあった福井藩邸に居住して、活躍した。
左内の号は景岳、福井城下に生まれ、大阪、江戸で洋学、医学を学び、藩主松平慶永(春嶽)に認められて藩学明道館の幹事となった。
安政4年(1857)の藩政改革には由利公正らと手腕を振るった。
折から幕府の将軍継嗣(けいし)問題が起こり、藩主を先頭に、一橋慶喜を立てる運動を展開。
左内は藩命を帯びて江戸より京都に来て、桃井亮太郎又は桃井伊織の変名の下に、ここを根拠にして盛んに活躍した。
しかし、井伊大老の就任によってこの運動は失敗し、それのみか左内は牢舎に入れられ、1859年安政の大獄によって死刑に処せられた。時に年26才。』
                      出典:【橋本左内寓居跡の駒札】より