堺町御門を出て丸太町通を東へ歩くと、寺町丸太町西入ルに「横井小楠殉節地」という石碑が建っている。
調度、京都御苑の東南の角で、丸太町通を挟み南側に位置する処にある。
ここで横井小南が暗殺される。
明治2年(1869)1月5日のことである。
横井小楠は文化6年(1809)に、肥後熊本藩士の次男として生まれている。幼少から聡明で、天保8年(1837)には、藩校の塾長となっている。
天保10年(1839)、江戸に遊学するも問題を起こして熊本に戻されている。
天保14年(1843)に私塾「四時軒」(しじけん)を開き、多くの門下生を輩出するのだが、その中に福井藩士の三寺三作が居て、これが縁で松平春嶽の求めにより、福井藩に出仕することとなる。
「四時軒」には坂本龍馬も訪ねており、時勢を共に論じている。この訪問で後に龍馬が献策する「船中八策」の原案を聞かされている。
かの勝海舟が、「今までに会った人物で二人の恐ろしい奴がいる。一人は西郷隆盛で、もう一人が横井小楠だ。
小楠の言うことを西郷が実行したら、日本はえらいことになる。」と、口癖のように言っていたという。
それが現実となったのが、大政奉還から王政復古へと続いていくのである。
小楠は常に、
「今言っていることは、今日そう思っているので明日になると、逆のことを言うかも知れない。それは今日と明日で全く考えが違うから。」
(ものごとは機に臨み、変に応じて処置せよという思想の持主であった)
坂本龍馬も、この人には手を焼いたらしく、
「(小楠は)二階に上って酒でも飲みながら、政治劇を見物して下さい。役者は我々が演じますから」
と云っている。
とにかく考え方が柔軟で、普通の人は、その考えが理解できなかったようである。
とにかく考え方が柔軟で、普通の人は、その考えが理解できなかったようである。
明治維新後も明治政府に参画するが、大久保利通などは、小楠を使いこなせなく大した評価はしていない。大きい人間は、それを使う人も大きな器量を持たないと使いこなせないのである。
小楠は、熊本藩ではその考え方があまりにも進んでいて、藩の旧い体質には溶け込めず不遇の時を過ごしたのだが、その才能をかったのが、越前福井藩の松平春嶽で、橋本左内らの推薦により、春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革や幕府の政事総裁職であった春嶽を助け、幕政改革にもかかわっている。
小楠は明治政府にも登用されるのだが、明治2年(1869)正月5日、参内の帰途に寺町通丸太町下ル東側(京都御苑の南東角)で、十津川郷士6人によって暗殺される。
暗殺された理由が、開国を進め日本をキリスト教の国にしようという、事実無根の訳の分からないことだったのである。
当時はこんな馬鹿げたことでも、暗殺の正当な理由となったのであろうか。
実行者に真実を聞いてみたいものである・・・



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