京都駅からそれ程遠くない七条油小路に本光寺という寺がある。
どこにでもあるような小さなお寺で、本光寺と聞いても何処にあるのか京都の人でも知らない人が多いのだが、伊東甲子太郎が斬殺された油小路の変があった場所といった方がよく知られている。
慶応3年(1867)11月18日のことである。

01月真院mid
伊東が新選組に入隊したのは池田屋事件から4ケ月後の元治元年(1864)10月で近藤に重用され参謀格となっている。
年は慶応に改まり、慶応元年(1865)2月に総長山南敬助が脱隊の罪で切腹をさせられた頃から、隊士への粛清が多くなっていくのだが、伊東甲子太郎は慶応3年(1864)3月に、孝明天皇の御陵を警護を拝命し、合せ薩長の動向を探るという名目で、三木三郎、篠原泰之進、藤堂平助など14名と共に新鮮組を離脱し、御陵衛士を結成する。
孝明天皇の御陵を守るという名目だったが、実は勤皇倒幕という考えで、近藤、土方らの佐幕思想と相反する立場だったのである。
(佐幕とは、幕府を補佐するの意味を持ち、徳川幕府側の人物をいう総称として使われる)
その為に、いつ新選組に襲われるかも知れないと、寝る時も刀は離さなかったという。
その御陵衛士の屯所があったのが、高台寺塔頭の月真院だったことから、御陵衛士のことを高台寺党とも呼ばれる。

02本光寺mid
その年に不動堂村屯所へ移るのだが、移った直後に御陵衛士と接触を図っていた、武田観柳斎が鴨川銭取橋にて粛清される。
そして11月18日、近藤勇は伊東甲子太郎を妾宅に招いて酒に酔わせ、その帰りを隊士の大石鍬次郎ら数名が、本光寺の前にて待ち伏せし、北辰一刀流の使い手であった伊東も千鳥足では太刀打ちできず、一命をを落すのである。
その後、油小路七条の辻に遺骸を放置し、引き取りにきた7名の御陵衛士に切り掛かったのである。その中に新選組生え抜きの藤堂平助がおり、永倉新八が逃がそうとしたのだが、運味方せず落命した。他に、毛内有之助と服部武雄が命を落としている。
この事件(油小路の変)によって御陵衛士は分解し、残った者は赤報隊に2番隊として加わるのである。
(赤報隊とは、官軍に加わった浪士隊であり、「赤心を持って国恩に報いる」との思いで赤報隊と名付けられる。一番隊、二番隊、三番隊で構成され、二番隊に御陵衛士の生き残りが中心となっていた。)

03石碑mid
駒札には、
『伊東甲子太郎は常陸(茨城県)の出身で、学問もでき、剣は北辰一刀流名手であった。
元治元年(1864)に門弟ら七人を率いて新撰組に入隊し、参謀として重視された。
しかし、尊王派であった伊東は、次第に隊長近藤勇と相反するようになり、慶応3年(1867)3月に同志十五人とともに新撰組を脱退して御陵衛士となり、高台寺月真院を屯所とした。
その後、薩摩藩の援助を受け、盛んに討幕を説いた。
しかし、新撰組との対立は深く、同年11月近藤勇らは、伊東を招いて酒をふるまい、酔った伊東をその帰路、この地で刺殺した。
この知らせを聞いた伊東一派は、直ちに駆け付けたが、待ち伏せしていた新撰組数十名の隊士に襲われ、三名が斬られた。
世にこれを油小路七条の変という。』
                出典:【伊東甲子太郎外数名殉難の地の駒札】より

04油小路mid
余談だが、
油小路通は、京の町を南北に貫く一番長い通りである。
北は賀茂川に近い紫竹上から始まり、南へと下がって行く。
北大路通を越えると紫明通となるが、ここから上立売通までの間は油小路という通り名はなく、この間通りが中断している。
上立売通から今出川通を越え、一条通も越えて丸太町通、そして丸竹夷と歌われている京の中心街を抜けると、油小路七条となる。ここに本光寺がある。
そして、東海道線の線路をくぐりさらに南へと続く。
すでに京都の市街地を随分と後ろに置いて、平安京の南の端、東寺を横に見てさらに南へ。十条を過ぎ鳥羽を越えて伏見まで油小路は続くのである。
京の市街では堀川通の一つ東の小さい通りで、静かな落ち着きを持つ通りであるが、東海道線の線路をくぐった先から堀川通に沿う広い幹線道路となり伏見まで続く長い長い通りがこの油小路なのである。