龍馬が裏の土蔵から母屋の2階に移って2日目の、慶応3年11月15日の夕(午後5時頃)中岡慎太郎が龍馬のもとを訪ねてくる。

01銅像mid
龍馬と慎太郎が話していたところに、下横目の岡本健三郎もやって来て、三人で談笑をする。(下横目「しもよこめ」とは、土佐藩の下士で地域限定の下級警官)
小半時(30分)ほどして、龍馬が「腹が減った」と、峯吉に軍鶏を買いに行かせる。慎太郎も「俺も腹が減った。健三郎も一緒に食べよう」と誘うが、所用があると言って峯吉と共に近江屋を後にする。
小間使の少年、峯吉が軍鶏を買いに行ったという「鳥新」は、現在は縄手通四条上るにあるのだが、この当時は四条小橋の袂にあり、近江屋から歩いても5分位であった。
しかし軍鶏肉が売り切れで30分ほど待って、夜の9時に近江屋に戻った峯吉は、この惨劇の結末を見ることになる。

02八坂の塔mid
峯吉と岡本健三郎が近江屋を出てすぐに、階下で案内を乞う者がいた。
下僕の相撲取りの雲井龍こと藤吉が応対に出ると、自分は十津川郷士だとの名札を示し、龍馬に取り次ぎを頼む。
藤吉がそれを持ち二階に取り次いだ後、階段を下りるのを待って暗殺者は藤吉を一刀両断に斬ってすてる。
藤吉が階段を転げ落ちる音を聞き、龍馬が「ほたえなや」と声をかけてしまい、これにより龍馬がここに居ることがはっきりしてしまう。
刺客は一目散に階段を上り、「坂本先生は・・・」と問いかけると同時に、正面左の慎太郎めがけ「コナクソ」との気合とともに、後頭部を切り込む。
もう一人がその横に居た、龍馬の前頭部を横に切り払うのである。
この時に、部屋にあった屏風に血が飛ぶのである。
これが今に残る、暗殺の真犯人を知っている屏風である。
龍馬は、一の太刀で額を横に斬られるが、それでも、床の間の吉行の太刀を取りにいくも、さらに背中から袈裟懸けに二の太刀をあび、さらに上段からの刃に対して鞘ごと防ぐのだが、そのまま打ち下ろされ頭を割られてしまうのである。
この時、懐にはピストルがあったようだが、これを使う暇もなく致命傷を受けている。
慎太郎は、後頭部を斬られ、右腕を皮一枚を残して斬られてしまい、そのほかに十一ケ所も斬られている。
龍馬は殆ど即死だったようであるのだが、最後の言葉は「慎太郎、俺は脳をやられたから、もういかん」と言ったというのが、この場に駆け付けた、土佐藩の島田正作、谷干城、陸援隊の田中光顕や薩摩藩の吉井幸輔らの回想に基づいて、後日書かれたものである。
龍馬は絶命し、藤吉は翌日、慎太郎は2日後の夕刻に息を引き取っているのだが、下手人のことは一切話すことなく亡くなっている。
これが、今日の龍馬暗殺の主謀者について喧々諤々の議論をよぶ元になっているのである。
龍馬33才、慎太郎30才、藤吉25才で、11月15日は奇しくも龍馬の誕生日であった。

でまとめているので一見してみてください。


03墓碑mid
霊山護国神社では11月15日に龍馬祭が行なわれ、多くの人達が墓前に集り手を合わす。
向かって右が、中岡慎太郎道正之墓、左が、坂本龍馬紀直柔之墓、さらにその左、一段低い所に下僕、藤吉之墓が建っている。
駒札には、
『徳川慶喜大政奉還劇の大作者である坂本龍馬は、洛中においては河原町三条下る材木商酢屋嘉兵衛方に寓居していたが、遭難十日前に醤油商近江屋新助方に転居した。
坂本龍馬は、当時、最も幕府側から狙われていた志士で、新撰組・見廻組らの追求が急となり、藩邸の堀内慶助らの気遣いから近江屋を選んだのが仇となった。
慶応3年(1867)11月15日、午後6時ごろ、中岡慎太郎が訪問。
この二、三時間後、会談中の彼らは刺客の襲撃に遭い、坂本龍馬は額を横に斬られ、二の太刀は右の肩から左背骨にかけ、三の太刀で更に前頭部を裂かれて悲痛なる一言を残して倒れた。
盟友・中岡慎太郎も全身に刀傷を負い、二日後の17日の夕がたに息を引き取った。
18日、近江屋において葬儀が行われ、ここ霊山に埋葬された。
坂本龍馬にまつわる逸話として、37年後の日露戦争の最中、昭憲皇太后の夢枕にひとりの侍の蔭が立ち現れて、「微臣坂本にございます。このたびの海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえ、ご安心願いあげます。」と言い残すと消えたという。
坂本龍馬、志士中の一級志士と云っても過言ではない。』
                出典:【坂本龍馬・中岡慎太郎の最期の駒札】より