京一番の繁華街、四条河原町通の交差点から北に200mほど上った左側の、今は回転すしの店がある所に、小さな石碑が建っている。
その石碑には「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」と刻まれており、ここが龍馬と慎太郎が暗殺された近江屋があった場所である。
坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたのは、慶応3年(1867)11月15日のことである。
醤油商の近江屋は土佐藩の御用商人で、近江屋の向かいには土佐藩の藩邸があった。
間口20メートル、奥行50メートルの広さで、母屋の奥に土蔵が三つ並んでいた。
この頃、龍馬は命を狙われていたようで、龍馬を気遣う人は多かったようだったが、土佐藩ではいまだに脱藩者としてよく思わない者も居て、藩邸には入れず、海援隊の本部の「酢屋」も知れ、「近江屋」も知られる所となっていた。
近江屋に逗留した龍馬は風邪を引いたことで、裏の土蔵は寒く慶応3年11月13日に母屋の2階に移っている。
これが命を落とす遠因となるのだが、龍馬が潜んだ土蔵は、もしここで襲われた時には、隣の誓言寺に逃がれるように縄梯子が用意されていた。
(今でこそ、石碑の建つ近江屋跡から誓言寺までは、随分離れているのだが、当時は誓言寺の境内は広く、近江屋から誓言寺に逃げることが出来たのである。)
近江屋跡は、
2009年1月には、
2010年3月には、コンビニに
そして今は回転すしの店になっているようである。
近江屋跡にある駒札には、
『この地は、慶応3年(1867)11月15日、維新の功労者である土佐藩海援隊長の坂本龍馬(1835~1867)が盟友である陸援隊長の中岡慎太郎(1838~1867)とともに刺客に暗殺された近江屋(醤油商)があった所である。
龍馬は、海援隊の本部があった酢屋(材木商)に下宿していたが、前年の寺田屋事件により幕府から狙われていたため、土佐藩の出入商人であった近江屋に移っていたのである。11月15日の夕刻、中岡が近江屋を訪ね、大政奉還後の政局について論じていたが、夜になり、十津川郷士と称する男たちによる襲撃を受けた。
龍馬はその場で絶命し、中岡も2日後この世を去った。龍馬33歳、中岡30歳、実に大政奉還(10月14日)が行われた1ケ月後、王政復古の大号令(12月9日)が出る1ケ月前の出来事であった。
龍馬と中岡は、ともに遭難した山田藤吉と、現在の京都霊山護国神社に埋葬されている。』
出典:【坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)の駒札】より




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