六角獄舎で斬首されたなかには池田屋騒動の端緒となった、枡屋・湯浅喜右衛門こと古高俊太郎もいた。

01桝屋跡mid
古高俊太郎という名は、新選組を扱った映画や小説などで、池田屋騒動の場面になると必ず登場する人物である。
この人物が新選組に捕えられたことが、池田屋騒動への端緒になったと云われている。
古高は、文政12年(1829)に近江国粟太郡物部村(現、滋賀県守山市)に生まれる。
父周蔵が山城国山科毘沙門天門跡の家臣になったのを機に京に移り住み、和歌を烏丸光徳に学ぶ頃より、公家とも親しくなっていく。
また梅田雲浜につき勤皇思想を学び、勤皇の志士とも交流を深めていくのである。
その後、同志の一人である湯浅五郎兵衛の斡旋で、枡喜こと湯浅喜右衛門の養子となって店を継ぎ、枡屋・湯浅喜右衛門を名乗ることとなる。
この店を本拠として、密かに武器を集め、同志を援助するなどし、多くの志士が集い勤皇活動の拠点となっていた。
四条河原町から三条に向い(北に)一つ目の筋を東に入ると、勤皇の志士、古高俊太郎が商い兼住居としていた「枡屋」が在った場所である。
現在は、和食の老舗である「志る幸」が営業をしており、東に抜けると木屋町通となる。

02前川邸mid
ところが元治元年(1864)梅雨も空け祇園祭も間近に迫った6月5日の早朝に、新選組に踏み込まれ、家に隠した武器・弾薬が没収され、志士との密約書も発覚し、壬生の前川邸で厳しい取り調べを受けるが白状せず、業を煮やした土方歳三が、今に残る前川邸の土蔵で逆さ吊りにし、足の指の爪に五寸釘を打ち、そこに蝋を流し込むという拷問に、俊太郎も耐えかねて、とうとう、祇園祭の日に京の町に火をかけて、御所に乱入し孝明天皇を連れ去るという企てを白状するのである。
この自白により、新選組が探索を始め、三条小橋の池田屋に集まった志士を襲い、肥後の宮部鼎蔵、土佐の北添佶摩・望月亀弥太、長州の吉田稔麿など、多くの志士が討ち取られ明治維新が数年遅れたという。
古高慎太郎は、その後、六角獄舎に繋がれたが、元治元年(1864)禁門の変に際し洛中は大火となり7月20日、六角獄舎にも火が迫るなか、勤皇の志士30数名と共に斬首されるのである。

03駒札mid
駒札には、
『古高俊太郎は、文政12年(1829)、近江国大津に生まれた。
父・周蔵は近江国栗太郡物部村古高の出で、大津代官石原清右衛門に仕え、のち山代国山科毘沙門堂門跡の家臣。
俊太郎も同門跡の近習となり、和歌を烏丸光徳に学び公家との交流を深めた。
梅田雲浜の門で勤王思想を学び、勤王志士とも交わった。
同士の一人、湯浅五郎兵衛の依頼で湯浅喜右衛門の養子となり、枡屋湯浅喜右衛門と変名して、この地に「枡屋」を構えた。
密かに武器を集め、同士と連絡を取って援助をするなど、多くの志士が集う倒幕活動の拠点となっていた。
しかし元治元年(1864)旧暦6月5日早朝、新選組に捕縛され壬生の屯所で過酷な拷問を受けたとされる。
これが三条小橋の旅館・池田屋における「池田屋事件」の端緒となったと言われる。
元治元年(1864)禁門の変に際し洛中は大火となり7月20日、六角獄舎で処刑された。享年36歳。
明治24年(1981)、特旨を以て正五位を贈られた。』
                  出典:【勤王志士 古高俊太郎邸跡の駒札】より