東京お茶の水に「ニコライ堂」という教会がある。ここもまた龍馬さんに関係
する場所なのである。
JR「お茶の水」下車、徒歩2分または東京メトロ千代田線「新お茶の水」下
車、徒歩2分。

正式名称を「日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂」といい、イイスス・
ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する大聖堂で、「ニコライ堂」
の名はロシア人修道司祭の「聖ニコライ」に因んでいる。
聖ニコライ(イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン)により発案され、
ジョサイア・コンドルが設計したもので、日本で初めてのビザンティン様式の
教会建築である。
ビザンチン様式は、壁が厚く窓が小さく、中央にドームを設け壮大で堅牢な建
物となっている。細かい部分にイギリスのロマネスク風やルネッサンス式が巧
みに取り入れられている。
聖堂は34,5m、鐘楼は37,7mの高さがあり、建坪は1,050㎡である。
明治17年(1884)3月に起工し、7年後の明治24年(1891)年2月
に竣工する。これに関わったのが、龍馬に助けられた、山本琢磨である。

ここは、拾った金時計を売り払った窃盗罪が発覚し、窮地に陥ったところを
龍馬に助けられて江戸を逃れた、山本琢磨が後に、この建物の建設に関わる
のである。
山本琢磨は、天保6年(1835)、土佐国土佐郡潮江村(現在の高知市潮江)
に山本家の長男として生まれる。
この山本家から叔父の八平が坂本家に婿養子として入り、龍馬をもうけている。
龍馬とは従兄弟どおしの間柄であり、また、武市半平太とも遠い親戚であった。
武市と江戸に出て、「鏡心明智流・桃井道場」で剣の腕を磨いたが、酒の上で
の不始末(拾った時計を売ってしまう)で窮地に追い込まれ、龍馬や半平太に
助けられ江戸を脱出する。
その後、函館で、聖ニコライと出会い洗礼を受け、「ニコライ堂」の建設に尽
力するのである。
「ニコライ堂」建設にあたっては、駿河台から皇居を見下ろすとの理由で右翼
の嫌がらせがあったようであるが、山本琢磨(この頃は養子となり、沢辺琢磨
となる)が現場に現れると、幕末の動乱を生きた風格からか、右翼はいつのま
にかいなくなったという。
いずれにしても、龍馬が命を助けた、山本琢磨がこの聖堂の建設に関わったこ
とは、紛れもない事実である。
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