蛸薬師通から北に2分歩くと、和泉式部の寺として知られる「誠心院」がある。
山門に掛かる門額には『「真言宗泉涌寺派」「華嶽山東北寺」「和泉式部」誠心院』とある。和泉式部を初代住職とし、式部と深い関わりのある寺院である。
和泉式部と誠心院の説明によると、
『和泉式部は、天延2年(974)から天元元年(978)の間に生まれたといわれる平安中期の歌人で、中古三十六歌仙の一人に数えられます。
父は大江雅致(まさむね)、夫は和泉守の橘道貞で、父の官名と夫の任国とをあわせて「和泉式部」と呼ばれました。
冷泉天皇の皇子である為尊(ためたか)親王と恋をしますが、為尊親王は長保4年(1002)に死去。
その死後、弟の敦道(あつみち)親王と恋に落ちますが、彼もまた寛弘4年(1007)に早世しました。
敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記「和泉式部日記」が有名です。
その後、藤原道長の娘・上東門院彰子(一条天皇の中宮)に女官として仕えます。
同僚に紫式部や赤染衛門がおり、共に宮廷サロンを築きました。
今に伝わる歌集は「和泉式部正集」などがあります。
「拾遺和歌集」などの勅撰集に二百④十六首の和歌を採られ、「後拾遺和歌集」では最多の歌が選ばれており、屈指の王朝歌人といえます。
寺伝では、娘の小式部内侍(こしきぶのないし)に先立たれた和泉式部は、この世の無常を感じ「女人往生」のすべてを求めて書写山円教寺の性空(しょうくう)上人を尋ねます。
誓願寺の本尊・阿弥陀如来の霊験を教えられ、四十八日のお籠りの末、「女人の身でも南無阿弥陀仏と一心にお唱えすれば、身の穢れも消えて往生できる」との教えを受けます。
その後も誓願寺に参る以外は念仏三昧の日々を送り、その甲斐あって二十五菩薩に迎えられ弥陀の浄土へ往生しました。
それ以後、女人往生を願う人があれば、和泉式部が歌舞の菩薩とお迎えに来てくださるという信仰が盛んになります。
上東門院彰子が父・藤原道長に勧めて法成寺東北院に「小御堂」というお堂を建立し、和泉式部に与えたのが、誠心院の起こりとされています。
誠心院は和泉式部を初代の住職とし、通称「和泉式部」と呼ばれ、和泉式部の寺として親しまれてきました。
以前は「じょうしんいん」と申しましたが、前住職の頃から「せいしんいん」と呼ばれています。
ちなみに和泉式部の法名は「誠心院専意法尼」と申します。
当初、御所の東、荒神口界隈にありましたが、鎌倉時代には小川通一条上るに移転し、豊臣秀吉の時、寺町六角下る(現所在地)に移転されました。
明治5年(1872)、京都府知事の命令で境内に新京極通が通され、現在に至っています。』
出典:【和泉式部と誠心院】より



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