新京極の通りには、七つの寺院と一つの神社があり、通りの歴史を今に伝えている。
新京極の七不思議を訪ねるのだが、まずは新京極が四条と交差する西北角の、昼でも薄暗い路地の奥にあるのが染殿院である。
染殿院の本尊である染殿地蔵が、高さ2m余りの木彫裸形の立像と言われ、秘仏にしてその公開は50年に一度である。
染殿院の本尊である染殿地蔵は秘仏だが、安産守護の信仰があり、夫婦や恋人たちの参拝が絶えないが、なかには、もう安産祈願には関係がないと思われる夫婦も訪れている。(笑)
四条通から錦小路にかけては、四条道場と呼ばれた時宗金蓮寺(こんれんじ)の広大な寺域だった所で、染殿院もその塔頭の一つであった。
金蓮寺は、、応長元年(1311)浄阿真観が後伏見上皇の女御広義門院藤原寧子の出産に際し効があったことから、この地にあった祇陀林寺を賜り金蓮寺と改めたことに始まる。
その後、時宗の道場となり「四条道場」と称されるようになったが、昭和3年(1928)現在の京都市北区鷹峯に移転している。
染殿院の沿革が記されていて少し長いのだが、前後半に別けて紹介すると、
『染殿院は、大同3年(808)空海(弘法大師)の開基にして、大師入唐帰朝の折、当院に留まり十住心論を清書調巻されたことから、十住心院と称した。
古くは釈迦院或いは敬禮寺(きょうらいじ)又は清和院釈迦堂其の他釈迦堂(鎌倉期の一遍聖絵巻)とも呼ばれた。
本尊は地蔵菩薩にして、高さ2m余の木彫髁(すはだ)形の立像にて秘仏である。
人皇55代文徳天皇(850~858在位)の后藤原明子(藤原忠仁公の息女)は染殿皇后と申し、この地蔵尊に祈願して皇子を降誕された。
後の清和天皇である。これより染殿地蔵尊と称された。
人皇62代村上天皇(946~967在位)第三皇子一品式部郷久賀為平親王は、四條中川のあたり(中川は御所より今の寺町通りに流れていた川)境域広く家造りされた。
染殿地蔵堂も自然この内に含まれ御願寺となって皇子を染殿親王と申した。
66代一條院永延元年(987)に東大寺沙門奝然(ちょうねん)が入宗帰朝し赤旃檀(あかせんだん)の釈迦像を伝来し、嵯峨野の清凉寺に安置されたが奝然はまた自から御𠀋三尺余の釈迦像一体を造り当院に奉納(金漣寺霊宝庫の現存)これより世に四條京極の釈迦堂と呼ばれた。鎌倉期の一遍聖絵巻に「弘安7年閏4月16日、関寺より四條京極の釈迦堂にいり給ふ。
貴賤上下群をなして人はかえり見る事あたはず、車はめぐらすことをえざりき、17日ののち因幡堂にうつり給ふ。」とある。
すなわち一遍上人が大津関寺から入洛四條京極の釈迦堂にて念仏賦算(かふだばり)をしたというのは、この寺のことである。
金漣寺よりも釈迦堂の方が歴史も古く、一遍とのゆかりも深いのであるが、室町時代はどの社寺にも属しておらず時の移りとともに、その時代の権力者によって、次から次にと護持伝来されて来たが、偶々、足利義満が嘉慶2年12月22日、金漣寺に寄進したため本末転倒して、金漣寺の塔頭になった。
「夢想国師が苔寺(洛西、西芳寺)の作庭に没頭したとき、この地蔵尊が一旅僧となって国師を助けたという伝え」、嵯峨天龍寺開山夢窓国師が松尾に西芳精舎(苔寺)を創し、泉水の美観を好み築山の構えを営もうとしたとき、石は重く大きく少しも動かなかったが、たまたま一人の僧が忽然として現れ、ただ一人で自由に大石を動かし、国師の意の通り庭園を作ったので、国師は歓喜の余り、何かお礼をしようかと思案したが、幸にその僧は袈裟を持たないのがわかったので、これを進じようと自から着けていた袈裟を贈った。
その僧はその袈裟を受け、錫杖を地に立てたまま消え失せたのである。
後日、国師が四條の辺に托鉢し、たまたま四條京極の染殿地蔵堂に詣り、御扉を開けて拝すると、先の袈裟は地蔵菩薩の肩にかかっており、手に錫杖はなかったので、疑うところもなく件(くだり)の僧は、この地蔵の化身であったことを知り、国師は感激の涙を流されたということである。
現在の染殿院の建造物は、元治元年に京都御所以南が大火に見舞われた(通称ドンド焼け)その時に建てられた仮堂である。』
出典:【染殿院の遠隔】より



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