宇治の平等院には、JR奈良線の「宇治」か、京阪電車宇治線の「宇治」で降りるのだが、どちらの駅からも徒歩10分のところにある。
喜撰法師が「わが庵は 都の辰巳 しかぞすむ 世を宇治山と 人はいふなり」と詠んだように都からは少し離れているのだが、応仁の乱ではなく、建武・元亀の兵火により鳳凰堂と鐘楼・釣殿のみが当時のまま、今にのこっている。
京都の南にある宇治は平安時代の初めから貴族の別荘地だった所で、平安時代初期に、光源氏のモデルとされる左大臣源融が別荘を建て、この風光を愛で酒を酌んだという。
その後、陽成天皇、宇多天皇、朱雀天皇と渡り、長徳4年(998)に時の摂政、藤原道長の山荘「宇治殿」となる。
道長が没した後、その子の関白、藤原頼道が永承7年(1052)末法思想に基づいて、明尊大僧正を開山として寺に改めた。
その際に寺の名を「平等院」との名を付けるのである。
当時は、鳳凰堂のほかに三重塔・五大堂・金堂・講堂・経蔵・法華堂・大門などの堂塔伽藍が立ち並んでいたが、建武・元亀の兵火にかかり、今は鳳凰堂と鐘楼・釣殿を残すのみであり、往時の面影は遺跡すら残っていないのである。
しかし鳳凰堂が残ったことにより、平等院は今日にその名を残し、藤原時代の華麗な芸術を偲ぶことが出来るのである。
鳳凰堂は、正式には阿弥陀堂という。
平安末期には末法思想が京の都にも広がっており、この世の破滅が信じられていたのである。
世の人は、この末法の世を無難に過ごせるようにと、一心に阿弥陀如来に対して「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えたのである。
藤原頼道も末法思想の影響を受け、阿弥陀の極楽浄土を末法の現世に実現しようと、阿弥陀堂(鳳凰堂)を建てるのである。
鳳凰堂の完成が天喜元年(1053)で、末法元年である永承7年(1052)の次ぎの年である。
鳳凰堂は、中堂・両翼と後尾部からなり、中堂は三間二間の重層でもこしがあり、屋根は入母屋・本瓦葺で、正面は蓮池に臨む。
翼廊はその左右にあり、両端は矩形で、隅角に宝形造の楼閣を置く。
中央の大棟の両端には青銅製の大鳳凰を置き、そのことから鳳凰堂と呼ばれるとも、またその形が鳳凰の翼を広げたのに似ているからともいう。
建築様式は阿弥陀堂建築なのだが、その配置は寝殿造の影響を受けているといい、その姿はまさに鳳凰が末法の世を厭い、浄土世界に飛び立とうとする姿に似ているのだという。
平等院の正門を入ってすぐにある観音堂も、兵火にかからず残っている建物である。
駒札によると、
『均整のとれた姿は鎌倉初・中期の特徴をよくあらわしている。当初は中央に須弥壇を置く程度であったと見られ、道場的空間にふさわしい簡素な建物である。』
出典:【観音堂の駒札】より
平等院:京都府宇治市宇治蓮華116
JR奈良線「宇治」駅下車、徒歩10分または、京阪宇治線「宇治」駅下車、徒歩10分
応仁の乱にも焼けなかった建物をいくつか紹介したのだが、他にもまだあるのだがまたの機会に譲ことにし、次に筆を進めようと思うのである。




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