高知から東に40Km、車で約1時間の所にあるのが安芸である。
安芸は古くから開けていたようで、弥生時代の石器や土器などが出土しており、壬申の乱(672年)で敗れた蘇我赤兄が流された所として伝えられる。

古来より、土佐の国は流人の地として、四国でも四国山脈を越えるか、はるか太平洋から海沿いに入国するか、都からは随分と遠い所だったようである。

赤兄の子孫と称し、安芸氏がこの地を領有していたが、長宗我部氏によって滅亡し、その後の山内一豊と供に入国した五藤為重が安芸を知行し、幕末までこの地を納めるのである。

明治になり、九つの村に分かれ昭和29年(1954)にそれらが東郷され、安芸市となり現在に至っている。

01安芸城min

安芸駅から2Km、安芸城跡の西と南に残る町並みが「土居廓中(どいかちゅう)」と言われ、武家屋敷が残り今も当時の風情を残している。

土佐国は長宗我部氏が長年支配をしていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、西軍についた長宗我部盛親が領国を没収され、変わって山内一豊が土佐一国を任されることになる。

この時に、五つの土居の一つ安芸を任されたのが五藤為重である。
為重は安芸城を中心に家臣を住まわせ町割を整備発展させる。
これが当時のまま今に残り、狭い通りに沿った生垣や塀等が連なる武家屋敷特有の風情を残している。


02寺村家min03練り塀min

寺村家住宅と練り塀

『江戸時代には、五藤家家臣小牧家があった。
小牧家は、尾張小牧(愛知県)の出身で、山内一豊の重臣五藤為重に従って土佐へ入国。幕末の頃には、漢学者の小牧天山、米山が出ており、米山のもとには、岩崎
彌太郎も通っていた。

明治半ばに寺村家が医院を開設し、現在の建物が建てられた。
寄棟造り桟瓦葺き平屋建ての主屋には、待合所、診療所が設けられ、南に面した長屋門は患者の入院施設として使われた。医家住宅の近代初期の屋敷構えがよく残っている。

割れ瓦を積み重ねた練り塀と、河原石と赤土の練り塀でできている。
練り塀の上に土佐漆喰で塗り固め内側に屋根をつける。
瓦練塀は安芸地域でよく見られる塀で、その多くは幕末から近代中期にかけて造られた。
瓦の産地、安芸の地域性を持つ塀として価値が高い。
土居廓中の南に位置するこの塀は貴重な歴史的景観となっている。』

                            出典 土居廓中のパンフレット

04土居廓中min

土居廓中(どいかちゅう)は安芸平野のほぼ中央、安芸川の西岸に位置し、周辺は条理制の遺構がよく残る古代から開けた土地です。

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、長宗我部氏に代わって土佐へ入った山内一豊は、山間部が多く東西に広い土佐国を治めるため、佐川、宿毛、窪川、本山、安芸の五ヶ所の土居に家老または重臣を置きました。
本来、「土居」とは、土手に囲まれた領主屋敷のことを指し、この五ヶ所の土居には、家老屋敷を中心に小規模な城下町が形成されました。

土居廓中には、武家屋敷が並ぶ町割とともに、江戸時代末期から昭和初期にかけての建物が残り、狭い通りに沿って石溝や生垣、塀等が連なる武家地特有の歴史的風致を今日に良く伝えています。

昭和49年(1974)に地元住民により結成された「ふるさと土佐土居廓中保存会」が主体的に保存に取り組んできたこの歴史的な町並みは、安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区とされ、平成24年7月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

               出典 安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区の説明文