平治の乱は、平治元年(1159)に、平清盛一党が熊野詣でに出かけた留守を狙い、源義朝が後白河上皇の三条東殿を襲撃し、上皇を内裏東側の一本御所へと護送し、内裏に居た二条天皇と共に幽閉するのである
三条殿いたはずの信西はいち早く逃げ、山城から宇治田原に逃れるも捕らえられ斬首される。

01六波羅mid
熊野詣での途中でこれを聞いた清盛は、急遽都に戻り内裏に幽閉されている二条天皇を救い出し、六波羅の邸に連れ出す一方、後白河天皇も仁和寺へと逃がすのである。
平清盛は、内裏での戦を避けるため内裏に籠る源氏勢を攻めるとみせ、一世に兵を引き六波羅の地に逃げ帰るのである。
まんまとその策にはまった源義朝は平家を追って六条河原で一戦をまみえるのだが、戦いに敗れ東に向かって逃げ延びるのである。
しかし名古屋に来た所で、家来の裏切りに会い捕らえられ六条河原で斬首となるのである。

02六道珍皇寺mid
この戦で義朝の子である、頼朝、範頼、義円、義経などは助命され、頼朝は伊豆に、義経は鞍馬山へと幽閉されるのだが、そこは配流の地とは程遠く、頼朝は北条と、義経は鞍馬山で修行を積み平家打倒へとの道筋を付けていたのである。
保元の乱のように情をかけずに、信西のように血で血を洗う粛清をしていたならば、平家の政権はもう少し長く続いたのだろうと思われるのだが、歴史にifという文字は存在しないのである。